吾妻鑑における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:46 UTC 版)
備中国に土着した庄三郎右衛門家次の嫡子とされる(系図上では、家次→朝次→有次とある)。『吾妻鏡』には、「本庄四郎左衛門尉時家(家次の弟)」と共に「本庄新左衛門尉朝次」の名があり、13世紀中頃の嘉禎4年(1238年)2月17日条に4代将軍藤原頼経の入洛に際し、192騎いる先陣の御所随兵の25番にその名が見られるが、阿保、猪俣、四方田など武蔵国児玉郡周辺の武士と並べて記されている。また、同年6月5日条に、将軍家春の御輿としてその名が見られる。 一考察として、家次が備中へ移住した事で、庄氏本家の領地を弟の時家が守る事となったが、家次の子息である朝次も武蔵国へあずけられ、時家と共に活動したと言う。
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