北京政変 (1976年)
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北京政変(ペキンせいへん)は、1976年10月6日に中華人民共和国北京市で起こった四人組の一斉逮捕、およびそれにともなう政変である[1]。翌7日のうちに華国鋒体制が成立した[1]。別名、懐仁堂事変(かいにんどうじへん)。
注釈
- ^ 10月4日、「光明日報」に梁効(「四人組」のペンネーム)論文「永遠に毛主席の既定方針に従って実践しよう」が掲載された[3]。
- ^ 懐仁堂は、1900年の義和団の乱のさいに八カ国連合軍に焼かれて再建されたという歴史的建造物である[4]。
- ^ 1976年1月8日、毛沢東の信任をつなぎとめていた周恩来総理が死去し、2月初旬、一般には無名に近かった華国鋒の国務院総理代行への就任が発表された[6]。同年4月5日、鄧小平らを標的とした「走資派」批判に対する大衆的抗議として四五天安門事件が起こった[6]。この事件は、北京の大衆が墓参の日である4月4日の清明にちなんで天安門広場の人民英雄紀念碑に次々に花をたむけ、詩を朗読して周恩来の死を悼むとともに毛沢東政治への不信を表明したもので[6]、数十万の群衆のなかには、いわゆる「四人組」を公然と批判する者もいた[2]。毛沢東を秦の始皇帝になぞらえ、人民が真に国の主体となるべきことを訴える人びともおり、そのなかにはかつて紅衛兵として造反した経験をもつ者もあった[2]。こうした動きに危機感をいだき、大衆の動きを規制しようとする官憲・民兵組織と群衆との間で流血の事態に発展した[6]。鄧小平は、この事件の責任をとらされて再度失脚した[6]。
- ^ 紀念堂入り口の「毛主席紀念堂」の金文字の彫刻は華国鋒の揮毫による。
- ^ 四五天安門事件の後、「四人組」は彼らが掌握する言論機関を総動員して「走資派」批判を展開し、プロレタリア文化大革命の理念を強調していた[2]。
- ^ 華国鋒は、中国共産党第11次全国代表大会において「第一次文化大革命の終結」を宣言し、20世紀内にあらゆる力を団結して「偉大な社会主義強国」を建設することを呼びかけた[7]。文化大革命については「成果が七分で、誤りが三分」という毛沢東の評価を踏襲し、三分の誤りは四人組の「極右反革命修正主義路線」に由来すると規定し、今後も引き続き文革を行う必要があると総括した[7]。翌1978年前半の華国鋒と鄧小平をまじえた会議では、鄧がもっぱら「4つの現代化」を強調したのに対し、華は依然として「毛沢東思想」「階級闘争」そして文革路線の「工業は大慶に学び、農業は大塞に学ぼう」のスローガンに依拠する二元的状況がみられた[8]。「4つの現代化」が統一的な国家目標として最終的に定着したのは、1978年12月の中共第11期3中全会(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議)においてであった[8]。
- ^ 「四人組」判決と同時に、陳伯達・黄永勝・呉法憲・李作鵬・邱会作・江騰蛟の6人も「林彪反革命集団」として懲役17年ないし18年の重刑が宣告された[9]。
出典
- 1 北京政変 (1976年)とは
- 2 北京政変 (1976年)の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
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