勧修寺経理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 06:06 UTC 版)
勧修寺 経理(かしゅうじ つねおさ)は、幕末の公家。勧修寺経則の三男。勧修寺顕彰の養子。官位は従四位下・右中弁。
- ^ 公式の記録類では、生日を文政11年10月12日(1828年11月18日)とされているが、勧修寺家の雑掌などを務め、尚侍勧修寺徳子より経理の教育係に任じられた地下官人袖岡文景の日記『山城国京都袖岡玄蕃助家記』(国文学研究資料館所蔵)天保10年4月8日条に「……山科殿より御入輿 万千姫御腹文政八年十月十二日御出生、当年真実十五歳、(中略)漸至当春 稲丸殿御家督治定、御年齢真実十五歳候所、相省十二歳ヲ以今般初位従五位下御申上ニ相成候……」と記しており、年齢を3歳ずらして届け出たことを記している。なお、同日条には、経理の同母兄・穂波経治(阿古丸)の年齢(公式には文政7年7月13日生)も「穂波殿御相続之時御年齢一ヶ年相退」と記している。本項では、同記事の出生日を採用している。詳細は西村慎太郎「近世後期堂上公家勧修寺家の雑掌について―蔵人方地下官人袖岡文景『家記』を事例に」(初出:『史料館研究紀要』第34号(2003年3月)・所収:「堂上公家雑掌の地下官人」(加筆・改題)『近世朝廷社会と地下官人』(吉川弘文館、2008年) ISBN 978-4-642-02330-6 P274-275)を参照のこと。
[続きの解説]
「勧修寺経理」の続きの解説一覧
- 1 勧修寺経理とは
- 2 勧修寺経理の概要
固有名詞の分類
- 勧修寺経理のページへのリンク