加治田衆調略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 15:37 UTC 版)
永禄8年(1565年)には、美濃佐藤氏国人衆で美濃において有力勢力である美濃要所でもある加治田城(飛騨と郡上更に東濃への重要拠点)城主佐藤忠能・忠康父子と加治田軍(加治田衆)が梅村良澤の説得に応じ、丹羽長秀の内通工作の働きもあり、梅村良澤を使者として信長に寝返る。加治田衆の内通は、尾張統一、美濃攻略の礎となり、斎藤氏の弱体化に繋がった。
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