副業としての初期の執筆活動
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「アーサー・コナン・ドイル」の記事における「副業としての初期の執筆活動」の解説
ドイルは患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆し、雑誌社に投稿するようになった。1882年には『我が友、殺人者(My Friend the Murderer)』が『ロンドン・ソサエティ(英語版)』誌から10ポンドで買ってもらえた。ついで同年末には捕鯨船での体験を基にした『北極星号の船長(The Captain of the Pole-Star)』が『テンプル・バー(英語版)』誌に10ギニーで買ってもらえた。さらに1883年にはメアリー・セレストの事件に触発されて書いた『J・ハバクック・ジェフソンの遺書(英語版)』が『コーンヒル・マガジン(英語版)』誌に29ギニーで買ってもらえ、これはドイルの初期の執筆活動最大の成功となった。ただし買い取ってもらえるのは稀なケースで大半の作品は返却されていた。 短編小説は小金稼ぎになったが、作者名が掲載されないため、その場限りなのが難点だった。ドイルの自伝によれば、1885年の結婚後にこのまま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったという。はじめに『ガードルストーン会社(英語版)』という長編小説を書いたが、出版してくれる出版社がなかなか見つからず、刊行は1890年になった。 この後の1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説がシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』だった。これも出版社がなかなか見つからなかったが、1886年10月末にウォード・ロック社(英語版)に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらった。同作品は1887年11月出版の『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載された。その翌年には単行本化もされた。反響はほどほどというレベルだった。
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