初期のエンターテイメント活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 17:54 UTC 版)
「バーブラ・ストライサンド」の記事における「初期のエンターテイメント活動」の解説
10代の頃にナイトクラブで歌手としてデビュー。しかし本来は女優志望で、数々のオフ・オフ・ブロードウェイ演劇に出演していた。当時野心的だった女優ジョーン・リバーズと競演したこともある。ボーイフレンドだったバリー・デネン(英語版)がクラブで働くように支援したため、1960年、マンハッタンにあるゲイバーで演じたことにより、歌手として成功をおさめた。それと同時期に、ユニークさを出したいと考えたストライサンドは自身の名前をバーブラ(Barbra)に縮めている。 1962年にはミュージカル『あなたには卸値で』でブロードウェイに出演し、その後コロムビア・レコードと契約を結んだ。彼女のデビューアルバム『ザ・バーブラ・ストライサンド・アルバム』は1963年に2つのグラミー賞を受賞した。その後、彼女の人気は低迷することなく、デビュー作から3作目までが同時にビルボードのポップ・アルバム部門のトップテンに入った。当時はロックンロールやビートルズがヒットチャートの大半を占めていたことから、彼女の功績は異例の快挙だと見なされた。 ファニー・ブライスの生涯を題材にした、ジュール・スタインとボブ・メリルの音楽による1964年の『ファニー・ガール』は、『あなたには卸値で』におけるストライサンドのパフォーマンスを見たスタインが彼女のために制作したブロードウェイ・ミュージカルである。しかしショーのプロデューサー、レイ・スタークの妻だったブライスの娘は、ストライサンドをキャスティングするのを強く反対し、彼女よりキャロル・バーネットのほうを好んだという。 テレビ出演も多く果たしたストライサンドは、米国のCBSチャンネルで多くのスペシャル番組に出演。特に最初のスペシャル番組であった1965年の『マイ・ネーム・イズ・バーブラ』は多くのファンや評論家によって賞賛された。 ストライサンドは1967年以降舞台には出演せず、1970年代から1990年代前半にかけてはコンサート活動からも遠ざかった。これはユダヤ系アメリカ人として政治的な姿勢を明確に表明していた彼女への脅迫行為が多発していたためで、以降彼女はレコードと映画を活動の中心とした。
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