初の甲子園ボウル出場
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「京都大学ギャングスターズ」の記事における「初の甲子園ボウル出場」の解説
1977年シーズン後、水野は総監督となり、指導の第一線から退く。後任には笹原明雄が就任。パス攻撃への転換を図ったが浸透せず、1979年には、関学、同志社に敗れ、近大に引き分けて4位に沈む。 1980年には水野が監督に復帰。RB松田明彦の活躍により関学に35-28で5年振りに勝利する。しかし、同志社、近大に敗れて3位に終わる。1981年には水野が監督に専任するが、関学に48-0で惨敗し2位に終わった。 1982年は春の関京戦の試合中の不慮の事故で部員が死亡。苦しい状況で秋のシーズンを迎えた。下馬評は決して高くなかった京大であったが、全勝同士で最終節の関学戦を迎える。この試合は、京大守備が関学攻撃を封じ、17-7で京大が勝利。京大は2回目の優勝(初の単独優勝)を決め、悲願の甲子園ボウル出場を決めた。関学は1949年からの甲子園ボウル連続出場が33で、1948年からの連続優勝は34で途切れた。初出場となった甲子園ボウルでは4連覇中の日大に28-65で一蹴されたものの、チャック・ミルズ杯は、リーグで1000ヤードラッシャーを達成、甲子園ボウルでも未だに最多ラッシング記録となる312ヤードを記録した、RB松田主将が受賞した。 1983年も再び最終節で関学と全勝対決となった。京大はQB大社充のパスでTDを量産、30-14と前半をリードすると、後半登場した関学QB小野宏(関学コーチ・2013年現在)の攻撃をTD2本で凌ぎ、30-28の僅差で勝利。リーグ戦2連覇を達成した。京大は勢いに乗って、甲子園ボウルでは5連覇中の日大のショットガン攻撃を封じて、30-14で勝利して初優勝、更にこの年度から日本選手権となったライスボウルではレナウンローバーズに29-28で勝利して、初代日本一に輝いた。
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