内野村
内野村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 15:27 UTC 版)
「宮前町 (さいたま市)」の記事における「内野村」の解説
江戸期は足立郡植田谷領に属する内野村で、古くは内野郷水判土荘に属していたと云われている。村高は『元禄郷帳』では123石余、『天保郷帳』では123石余であった。助郷は中山道大宮宿に出役していたが、正徳・安永年間は日光御成街道大門宿にも出役していた。化政期の戸数は24軒で、村の規模は東西10町、南北6町であった。 初めは幕府領、1682年(天和2年)より一部の知行が旗本新見氏、1697年(元禄10年)より残りの幕府領が旗本中山氏および大沢氏の相給となる。なお、検地は1697年(元禄10年)に実施。 1828年(文政11年)より大宮宿寄場55か村組合に所属していた。 1869年(明治2年)12月2日 - 旗本領が上知され、浦和県の管轄となる(府藩県三治制も参照)。 1871年(明治4年)11月13日 - 埼玉県の管轄となる。 1879年(明治12年)3月17日 - 郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。それに伴い、郡内に同名の村が所在(現・川口市大字東内野)したことから西を冠称して西内野村に改称。 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、西内野村・上内野村・櫛引村・西谷村・上加村・下加村・大成村が合併し、日進村が発足。日進村の大字西内野となる。 1940年(昭和15年)11月3日 - 大宮町・三橋村・日進村・宮原村・大砂土村が合併し、大宮市が発足。大宮市の大字となる。
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