内藤昌秀とは? わかりやすく解説

内藤昌秀(ないとう まさひで) 1521?~1575

工藤氏 源左衛門 昌豊 祐長 修理亮
◇父:工藤下総守虎豊 養子:内藤(保科)大和守昌月、源助正重
 鎌倉期からの名族甲斐・武田氏であった父が誅殺された為、兄長門守と共に出奔信玄の時復帰以後主要な合戦には殆ど参加し武功抜きん出ていたが、信玄は"修理亮程の者なら常人上の働きあって当然"として絶大に信頼し一枚感状さえなかった程である。昌豊も個人の功等、歯牙にも掛けず武田信繁と共に、"武田副将軍"と呼ばれた上野箕輪城攻略後、東の備の要となり、父と同様絶えていた内藤相模守虎貞の跡を継いで内藤氏名乗った長篠の合戦においては他の老臣同じく力攻めの不利を説くが容れられず、敵中突撃して戦死した川中島合戦戦死者内藤修理名がある別人

内藤昌豊

(内藤昌秀 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/13 03:53 UTC 版)

内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代武将武田氏の家臣で武田四天王の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年服部治則が正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している[2][注釈 2]


注釈

  1. ^ 藤原南家または藤原北家秀郷流内藤氏源満季流とも)[要出典]
  2. ^ 名前の「豊」の字は父・虎豊から1字を取ったものである[要出典]

出典

  1. ^ a b 丸島 2015, p. 531.
  2. ^ 服部 2007, § 内藤修理亮とその系譜.
  3. ^ a b c d e 丸島 2015, p. 529.
  4. ^ a b 平山 2008, p. 331.
  5. ^ 丸島 2015, p. 530.
  6. ^ a b 平山 2014, p. 223.
  7. ^ 平山 2014, p. 244.


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