内藤昌秀(ないとう まさひで) 1521?~1575
○工藤氏 源左衛門 昌豊 祐長 修理亮
◇父:工藤下総守虎豊 養子:内藤(保科)大和守昌月、源助正重
鎌倉期からの名族。甲斐・武田氏臣であった父が誅殺された為、兄長門守と共に出奔、信玄の時復帰。以後主要な合戦には殆ど参加し、武功は抜きん出ていたが、信玄は"修理亮程の者なら常人以上の働きあって当然"として絶大に信頼し、一枚の感状さえなかった程である。昌豊も個人の功等、歯牙にも掛けず、武田信繁と共に、"武田の副将軍"と呼ばれた。上野・箕輪城攻略後、東の備の要となり、父と同様絶えていた内藤相模守虎貞の跡を継いで内藤氏を名乗った。長篠の合戦においては他の老臣と同じく、力攻めの不利を説くが容れられず、敵中突撃して戦死した。川中島合戦の戦死者に内藤修理の名があるが別人。
◇父:工藤下総守虎豊 養子:内藤(保科)大和守昌月、源助正重
鎌倉期からの名族。甲斐・武田氏臣であった父が誅殺された為、兄長門守と共に出奔、信玄の時復帰。以後主要な合戦には殆ど参加し、武功は抜きん出ていたが、信玄は"修理亮程の者なら常人以上の働きあって当然"として絶大に信頼し、一枚の感状さえなかった程である。昌豊も個人の功等、歯牙にも掛けず、武田信繁と共に、"武田の副将軍"と呼ばれた。上野・箕輪城攻略後、東の備の要となり、父と同様絶えていた内藤相模守虎貞の跡を継いで内藤氏を名乗った。長篠の合戦においては他の老臣と同じく、力攻めの不利を説くが容れられず、敵中突撃して戦死した。川中島合戦の戦死者に内藤修理の名があるが別人。
内藤昌豊
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