八丁沖
八丁沖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:15 UTC 版)
慶応4年5月19日の長岡城陥落後、新政府軍が長岡に侵攻して猿橋川・八丁沖の南側を占領。北側を奥羽越列藩同盟軍が要所に陣地を置き対峙し、平野部は膠着状態になっていた。 そこで同盟軍側が現状突破策として考えたのが、新政府軍側では通行不能とみなしている八丁沖を徒渉して無警戒の敵陣に上陸する奇襲作戦で、同盟軍総督千坂高雅の談によると「長岡藩重役の三間市之進が八丁沖に人が渡れる浅瀬があると聞いたことがあると云うので、三間氏に要所を探ってもらい、こちらの方でも地元の漁師に聞いたりして判断した」と述べている。 八丁沖を徒渉する作戦は2回実施された。
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