信円
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:37 UTC 版)
信円(しんえん、仁平3年(1153年)- 元仁元年11月19日(1224年12月30日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての興福寺の僧。別当として南都焼討からの復興に尽力し、現在の興福寺の基礎を築き上げた中興の祖。摂政関白太政大臣藤原忠通の九男。
- ^ 九条兼実が異母兄、慈円が異母弟となる。
- ^ 恵信は保元2年(1157年)に興福寺別当に就任しているが、権力基盤の弱い彼は大衆の支持を集めることができず、この後興福寺から追放されている。
- ^ 信円以降、明治の廃仏毀釈に伴う還俗までの歴代院主で、一条院と大乗院の院主を同時期に兼務し、しかも興福寺別当に就任した、つまり興福寺全山の権力を一手に掌握した僧は他に存在しない。信円の事例は、御堂流摂家が完全に分裂し両院家が分割継承されるようになる直前の時期の、しかも平氏による南都焼討に伴う興福寺全山の回禄(焼失)という未曾有の異常事態へ対応する必要から生じた特例的なものであった。
- ^ これにより、平氏が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に返却され、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の3者で費用を分担して復興事業が実施されることとなった。
- ^ 18歳にして維摩会の講師を務めるなど、僧としての才能を周囲に期待され、2度興福寺別当に任ぜられるも、2度目の別当職在職中に病没。
- ^ 良円と同様、2度興福寺別当に任ぜられたが、師の没後は菩提山に移り「後菩提山僧正」と呼ばれた。以後、菩提山門跡は大乗院門跡が兼帯するのが慣例となり、室町期に入るまで続いた。
固有名詞の分類
- >> 「信円」を含む用語の索引
- 信円のページへのリンク