侵攻の失速
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 22:56 UTC 版)
オスマン軍の攻勢は続き、同月さらに70隻の艦隊がヴィエステを攻撃し、9月12日にはヨーロッパでも豊富な蔵書を有する図書館がある聖ニコラ修道院(イタリア語版)が破壊された。10月にはレッチェ、タラント、ブリンディジが攻撃を受けた。 スルタンはオトラントを将来のイタリア征服の拠点として使いたかったが、ほとんどの人々が街から逃げ出したことでそれは無理になった。その結果、オスマン帝国はイタリアから軍隊の大部分を引き揚げて、海上輸送で維持できる規模の駐屯地を市内に残した。 遠征軍を率いるゲディク・アフメド・パシャはさらに兵力を集めて海軍の支援下にイタリア遠征を再開したいと考えていたが、準備のために一度アブロニア(ヴロラ)に戻ることになり、留守を託したハイレッディン・ベイに8,000の兵を預けた。その後、ゲディクがイタリアの地を踏むことはなかった。
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