伊治城の造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
神護景雲元年10月15日(767年11月10日)、造営開始から完成まで30日に満たない異例の速さで陸奥国の栗原地方に伊治城が完成した。この城柵は蝦夷豪族や蝦夷系有力者による貢献や支援を受けて造営されたと考えられている。また軍事力については、陸奥国の正規軍にあまり依存せず、蝦夷や俘囚らの保有する武力が常備軍に充当されていた可能性がある。 論功行賞によると田中多太麻呂、石川名足、大伴益立、上毛野稲人、大野石本、道嶋三山、吉弥侯部真麻呂の7人が叙位を受けている。このうち三山は伊治城造営の実質的な推進主体で最大の功績者であったため、地方豪族出身でありながら中央貴族官僚と同等の厚遇を与えられた。真麻呂は俘囚出身の人物であり、三山に協力して蝦夷・俘囚らに働きかけて造営事業への協力や伊治城下への移住を促した。 伊治城造営直後の神護景雲元年12月8日(768年1月2日)、道嶋嶋足が陸奥国大国造、道嶋三山が陸奥国造となり道嶋氏は最盛期を迎える。近年、道嶋氏は上総地方の住人であったが、7世紀中頃に牡鹿地方へと移住してきたことが明らかになった。
※この「伊治城の造営」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「伊治城の造営」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。
- 伊治城の造営のページへのリンク