伊佐庭如矢
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伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや、1828年9月12日(文政11年8月4日) - 1907年(明治40年)9月4日)は、山田郡郡長、愛媛県高松中学校(明治19年に廃校)校長、金刀比羅宮禰宜、初代道後湯之町長を務めた人物である。本名:成川 斧右衛門(なりかわ おのえもん)。号:震庵。
- ^ 松山藩は明治維新の時に朝敵だったため、松山城を残す事は許されないという世論があった。
- ^ 松山城を残す条件として、当時としては画期的だった城郭ごと公園に残すというアイデアを提案し、地元の有力者を説得させて最終的に江木を説得させていった。
- ^ 尚、ぎやまんの上に鷺の彫刻を北向きになるように配置し、観光客の目印になるようにした。また、ぎやまんの内部には太鼓を配置し、火の見櫓の部屋(振鷺閣)となっている。
- ^ 神の湯とも言われる。伊豫国風土記に登場する神話をモチーフにしたと伝わっている。
- ^ 但し、1952年(昭和27年)の10回目の使用(昭和天皇が来所され、湯に浸かるニュース映像が残されている)を最後に使用されておらず、現在は観光ガイド見学のための建物として残されている。湯釜には健歩如故(けんぽのごとし)と彫られた大国主命と少彦名命の彫刻(大国主命が病気を患った少彦名命を道後の湯につけた所、回復したという伊豫国風土記の話から着想した)がある。
- ^ 伊佐庭如矢氏の命日に、道後温泉本館改築120周年の報告をします(松山市のホームページ)
- ^ 愛媛県立図書館・文庫目録
- ^ 全国放送では、ろーかる直送便(2015年4月30日)で取り上げられた。
- 1 伊佐庭如矢とは
- 2 伊佐庭如矢の概要
- 3 出典
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