京阪80型電車とは? わかりやすく解説

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京阪80型電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/12 14:10 UTC 版)

京阪80型電車[注 3](けいはん80がたでんしゃ)は、かつて京阪電気鉄道京津線に在籍した電車路面電車車両)である。


注釈

  1. ^ 94・95・96は製造時より2両固定編成
  2. ^ a b c 回生失効時のバックアップとして発電制動機能も備えている。もっとも、使用される機会はほとんどなかったことから晩年は非常用制動として位置付けられていた。
  3. ^ 本形式が製造された当時、京阪は正式な形式称号に「」を使用しており、竣工時は「80型」であった。その後、鉄道事業法の施行に際して形式称号を「形」に変更したため、廃車時点では「80形」であった。
  4. ^ 当日四宮車庫に入庫していた25両中22両が被災し、うち15両は復旧不能として廃車処分とされた(これらに加えて、老朽化の激しかった20型21と電動貨車1両が同時に廃車された)。22両の内訳は30型5両・50型8両・70型9両であり、いずれも当時の京津線における主力車両であった。
  5. ^ 石山線で使用されていて錦織車庫所属であったために被災を免れた20型22 - 27と、事故復旧のために東洋機械興業に入場していたとされる70型72、それに被災車の中で被害の程度が軽かったものを修理した50型54→55・52→56の合計9両。
  6. ^ 京阪線や宝塚線などから老朽化や小型であることなどの理由で余剰気味となっていたもので、かつ京津線や石山坂本線に入線可能な車体寸法の車両が可能な限りかき集められた。30型も被災車の復旧と併せて12両全車が高床化・2両固定編成化され、急行運用に投入された。
  7. ^ これにより、当時の社会情勢では新造による迅速な補充が事実上不可能であった、ステップ付き車両の必要数そのものの削減が図られた。なお、当時は石山線にも低床ホームが残存しており、20型もそのために石山坂本線に配置されていたものであったが、そちらについては車両転出に伴う不足分を、休止中の北野線用でステップ付きの34形→京阪5型(木造の老朽車で、性能面の理由で京津線へは充当が困難であった)3両で補っている。つまり、四宮車庫火災後に京津線併用軌道区間へ投入された9両でさえ、無理に無理を重ねて捻出したものであった。
  8. ^ それ故に輸送密度の低い石山坂本線に転用したにもかかわらず、四宮車庫火災でやむなく京津線に呼び戻したものであった。
  9. ^ 30形以降、50型・70型の2形式が大津線向けに新製されているが、いずれも一部の主要機器に従来車の発生品を流用した半新車であった。
  10. ^ これにより、複雑な機構を備えるにもかかわらず自重は20tと260形(自重23.5tから23.8t)などを下回っていた。
  11. ^ そのデザイン故にモダンチンチン電車の元祖と紹介されたこともあった。
  12. ^ 山々の緑に融け込む色彩として近畿車輛側から提案されたものであったという。
  13. ^ 九条山付近にある、碓氷峠(廃止)や都電荒川線の「飛鳥山越え」こと飛鳥大坂並の66.7逢坂山の61‰などの急勾配区間が線内に点在する、通常の路面電車では考えられないような急峻な線形であった。
  14. ^ 端子電圧300V時定格出力41.25kWの直角カルダン駆動用電動機。
  15. ^ カルダン継手を採用した場合、出力を維持するには容積の削減による低下分をより高回転・高発熱設計とすることで補わざるを得ず、その場合は電機子や界磁の絶縁にH種などの高価な絶縁材料を使用せざるを得なくなる。また、冷却系や整流子の設計・保守もクリティカルになり、この面でもコストが増大する。
  16. ^ a b c d e f 1981年(昭和56年)4月の浜大津駅統合に際して、京津線に所属する全車両に対して方向転換が実施されている。本項における方向転換実施以前の記述に関しては当時の車両の向きで表記する。
  17. ^ ポール集電とパンタグラフ集電では架線の張り方が異なり、また架線吊り金具も交換する必要があったため、複雑な工事が必要となる。
  18. ^ ただし、この対策は1983年(昭和58年)12月3日の京阪線の架線電圧1,500V昇圧に伴って不可能となったため、三条変電所に回生電力吸収装置として定格出力200kVAのSIVを設置し、これとタイトランスにより余剰電力を交流6,600Vに変換、京阪線の付帯高圧系統へ給電して京阪三条駅の照明電源などで消費するように変更されている。
  19. ^ 後年台座も撤去され、トロリーポールを装備した痕跡は屋根上のトロリーポール関連装備撤去跡に僅かに残るのみとなっていた。これらも後述冷房改造に伴って屋根部の大改造を施工した際に失われた。
  20. ^ 前照灯取り付け座は後述の冷房改造に伴って、屋根部の大改造を施工した際に撤去された。
  21. ^ 当初は平安遷都1200年の節目にあたる1994年開業の予定だったが、3年遅れて1997年10月12日となった。
  22. ^ 四宮 - 浜大津間の入出庫列車については時間帯を問わず普通列車扱いのものもあったが、これらは普通列車運用に関連する一部列車を除き、準急・急行用の高床車が使われていた。
  23. ^ 正確には京津線との競合区間(京阪三条 - 御陵間)は京都高速鉄道の保有路線として開業した。本件に関する経緯等は京都市営地下鉄東西線#建設までの経緯を参照されたい。
  24. ^ 京阪の名車、解体まぬがれたが痛々しい余生 尽力も維持管理難しく - 朝日新聞、2021年9月8日。なお、記事の取材を受けた元NPO理事長は本人のブログで、女性の死去から1年も経たないうちに理事の男性も死去したことで運営が不可能となり、NPOの要件を満たさなくなったことから、法人格を取り消したことを記述している。
  25. ^ 「KEIHAN」ロゴは京阪電車の車両の場合、側面の運転室後ろの窓の上に貼付されるが、81と同様の貼付場所で5000系になされている。

出典

  1. ^ a b c d e f 『カラーブックス 日本の私鉄7 京阪』、136頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『カラーブックス 日本の私鉄7 京阪』、146頁
  3. ^ 山本清治 「大津線の看板電車 80形の生涯」 鉄道ピクトリアル2009年8月臨時増刊号(通巻822号)
  4. ^ 出典・レイル№74『京阪ロマンスカー史(下)』(プレスアイゼンバーン)、38頁に片町駅から「びわこ号」に牽引され回送される80形の写真が掲載。撮影日は1964年2月28日 このほか片町駅#京阪電気鉄道も参照。
  5. ^ a b 『カラーブックス 日本の私鉄7 京阪』、69頁
  6. ^ 清水祥史『京阪電車』JTBパブリッシング<JTBキャンブックス>、2017年、p.101
  7. ^ 山本清治 「京阪大津線の変遷 -京都市営地下鉄東西線開業までの10年間- 」『鉄道ピクトリアル』2000年12月臨時増刊号、[要ページ番号]
  8. ^ 第1回: 石山坂本線 600形電車(1) keihan-02.com(Internet Archive)
  9. ^ 山本清治 「大津線の看板電車 80形の生涯」『鉄道ピクトリアル』2009年8月臨時増刊号、[要ページ番号]


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