二宮尊徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 06:17 UTC 版)
二宮 尊徳(にのみや そんとく)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い[1]。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している[2]。
注釈
- ^ a b 利右衛門は、萬兵衛の次男であり、萬兵衛の弟である銀右衛門の養子になった。銀右衛門は次男坊ながら若干の土地から身を起こして中農までになった人物。萬兵衛は金治郎の祖父であるが、本家と分家との違いがあり、本家の立場からは伯父である。
- ^ 現在の栃木県真岡市、なお合併前の二宮町の町名の由来は尊徳である。
- ^ 実際には冷害の数年前からヒエの作付を準備させていたことが分かっている。尊徳は飢饉に備えて一人当たり五俵(約300kg)ずつの割合でヒエを蓄えるよう村人たちに指示していたという。
- ^ 当時の日本では、田畑の開墾を積極的に奨励するため、新しく開墾した田畑については一定期間(一般には3 - 5年程度)にわたって年貢を免除もしくは大幅に軽減する制度があった。この制度は俗に「鍬下年季(くわしたねんき)」と呼ばれた。
- ^ 妹尾河童の『少年H』に校長先生が訓示で「いよいよ二宮金次郎さんの銅像も出征することになりました。銅像は敵をうつための大砲の弾になるのです。今日皆さんは、下校する時金次郎さんにお別れしてください」という場面がある。山中らの指摘では時代が少し早いという。
出典
- ^ 大藤修『人物叢書 二宮尊徳』吉川弘文館、2015年5月、2頁。ISBN 9784642052740。
- ^ 大藤修『人物叢書 二宮尊徳』吉川弘文館、2015年5月、3頁。ISBN 9784642052740。
- ^ 小林惟司著『二宮尊徳 -財の生命は徳を生かすにあり-』ミネルヴァ書房、22ページ。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.4
- ^ 岩井(2010)、pp.31-32。
- ^ 日本博学倶楽部著[図説]歴史の「決定的瞬間」(愛蔵版)電子書籍版 株式会社PHP研究所 2013年 第3章column
- ^ 「海舟全集 第十巻」
- ^ 「道徳と経済原理 融合を」日本の潜在力2、経済教室、日本経済新聞、2014/04/11
- ^ 岩井茂樹 「二宮金次郎「負薪読書図」源流考」『日本研究』第36集、大学共同利用機関法人 人間文化研究機構、国際日本文化研究センター、2007年9月28日、pp.7-46。
- ^ 岩井(2010)、pp.200-201。
- ^ 井上章一 『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎』 新宿書房、1989年、pp.32-33。
- ^ 岩井(2010)、pp.142-161。
- ^ 伊勢弘志「国民統制政策における銅像と社会―校庭に「二宮金次郎像」が建つまで―」『駿台史学』第140号、2010年8月。
- ^ 平瀬礼太、「戦時下、学校から次々消えた「二宮金治郎像」」(銅像はつらいよ十選 4)、日本経済新聞、2013年12月18日
- ^ 半藤一利 『歴史に「何を」学ぶのか』 ちくまプリマー新書 2017年 ISBN 978-4-480-68987-0 pp.79 - 80.
- ^ 二宮金次郎像:勤勉精神今は昔、各地で撤去相次ぐ
- ^ 歩きながらは危険なので・・・金次郎も「座像」に 日光・南原小で除幕式 下野新聞、2016年3月3日閲覧。
- ^ 御木本幸吉の二宮尊徳顕彰公益財団法人大倉精神文化研究所
- ^ 報徳博物館 公益財団法人報徳福運社
- ^ 二宮尊徳資料館 真岡市公式サイト
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江戸時代の人物 | 松平太郎 丸山権太左衛門 二宮尊徳 毛利元一 杉田玄白 |
教育関係人物 | グレゴリー・クラーク フィリップ・メランヒトン 二宮尊徳 バートランド・ラッセル 篠原助市 |
日本の神 (人物神) | 駒井政五郎 弟橘媛 二宮尊徳 上杉謙信 西郷従道 |
日本の篤農家 | 中村直三 重城保 二宮尊徳 宇佐美祐次 川上善兵衛 |
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