世良田亮
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世良田 亮(せらた たすく[1]、安政3年10月3日[1]〈1856年10月31日[2]〉- 明治33年〈1900年〉8月1日[1])は、日本の海軍軍人。アナポリス海軍兵学校 1881年次卒業。最終階級は海軍少将。
注釈
- ^ a b 山本権兵衛が務めたことで知られる海軍省主事は、明治32年以降の海軍省先任副官[8]。概ね、現在の日本の中央省庁における大臣(長官)官房長に相当する[9]。
- ^ a b 明治31年当時の海軍省軍務局軍事課長は、後の海軍省軍務局第1課長に相当する海軍軍政部門の要職[10]。世良田の前任者は出羽重遠(後に海軍大将)、後任者は加藤友三郎(後に元帥海軍大将)である[10]。
- ^ a b 世良田が明治32年に艦長を務めた戦艦「富士」は、当時の帝国海軍の最新鋭艦にして最強艦。
- ^ 世良田と同じく明治14年6月にアナポリス海軍兵学校を卒業した瓜生外吉は、世良田に2か月遅れる明治14年11月2日に大日本帝国海軍の海軍中尉に任官し、世良田より後任となった[5]。
- ^ 帝国海軍では、明治19年から明治30年まで、中尉と中佐の2つの階級を廃止し、士官の階級は「少尉→大尉→少佐→大佐→少将→中将→大将」となっていた[7]。
- ^ 出典には「『葛城』艦長として日清戦争に参戦して武功を挙げた」という趣旨が記載されている[3]。
- ^ 世良田の海軍少将への進級(明治33年5月)は、アナポリス同期の瓜生外吉と同時であった[1][11]。
出典
- ^ a b c d e 秦 2005, p. 222, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:世良田亮
- ^ a b Keisan(カシオ計算機)で換算。
- ^ a b c d e f g h i j k 『上田市史・下巻』(1940年):社寺古墳及人物志/人物編:世良田亮
- ^ a b 谷光太郎 (1993). “主要提督から見た米海軍戦史(第9回):シムズ提督と大鑑巨砲時代”. 波濤 1993年9月号 (兵術同好会): 13-25.
- ^ a b 『明治二十二年六月八日調 海軍高等武官名簿』(国立公文書館公式サイトで公開)内閣、1889年、6頁 。
- ^ 明治19年3月時点の参謀本部は、帝国陸軍・帝国海軍の合同機関であった(→参謀本部_(日本)#沿革)。
- ^ 熊谷 2007, p. 56
- ^ 秦 2005, pp. 434–435, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-IV 海軍-1.海軍省-A. 本省 / 官房主事、海軍省(先任)副官
- ^ 千早正隆『海軍経営者 山本権兵衛』光人社、1986年、42頁。
- ^ a b 秦 2005, p. 438, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-IV 海軍-1 海軍省-A 本省-軍務局第1課長(軍事課長)
- ^ 秦 2005, p. 188, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:瓜生外吉
- ^ a b c d 生田 2017, 第4章 文部省音楽取調掛:海軍中尉瓜生外吉との結婚
- ^ 生田 2017, 第2章 アボット・スクール時代:海軍士官・瓜生外吉との恋
- ^ a b 亀田 2005, pp. 55–60, 第2章 ジョージタウンでの生活-ランマン夫妻とともに:6 梅子とモリス夫人との出会い
- ^ 生田 2017, 第3章 ヴァッサー・カレッジ時代:卒業-ショパンを弾く
- ^ 飯野 2000, pp. 81–82, 第4章 瓜生繁子-青春を共有した友として(亀田帛子):2 帰国後:瓜生家-若者たちのサロン
- ^ a b 小檜山 2020, p. 72
- ^ a b 「海軍大尉 世良田亮 結婚願(明治20年4月20日)」 アジア歴史資料センター Ref.C06090854800
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