上党戦役とは? わかりやすく解説

上党戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 08:19 UTC 版)

上党戦役(じょうとうせんえき)は、中華民国山西省上党地区(現長治市)内で1945年に発生し、日中戦争終結後国共両党間に発生した最初の軍事衝突である。1945年中の国共衝突中の一部分であり、第二次国共内戦の序曲である。この戦役は中国共産党によって開始され[3]、さらに重慶交渉中国語版[4]と歩調を合わせた重要な軍事行動であった。この戦役で閻錫山所属の11個師の部隊が殲滅され、閻錫山は第二次国共内戦中に中国共産党の起こした攻勢に対応できず、また、これまでの独立割拠ができなくなり、山西の守備に中央軍の援助を受けなければならなくなった。


  1. ^ 『重慶交渉について(毛沢東選集 第四巻)』外文出版社、1968年、60-61頁。"攻撃してきたかれらの部隊が合計3万8千人であったのにたいし、われわれは3万1千人を出動させた。"。 
  2. ^ 『重慶交渉について(毛沢東選集 第四巻)』外文出版社、1968年、61頁。"かれらは、3万8千人のうち、3万5千人を殲滅され、2千人が逃げのび、1千人がちりぢりになった。"。 
  3. ^ 汪朝光,中华民国史,北京:中华书局,2000
  4. ^ 重慶交渉」の語については、今井駿ら(1992)『世界現代史 3 中国現代史』、山川出版社、219頁 による
  5. ^ 中共中央文件选集,第15册第250页
  6. ^ 史泽波,阎军强占上党的惨败和雪耻奋斗的幻灭,山西文史资料,第二十四辑,页3
  7. ^ 谈判期间的国共之战——上党战役 Archived 2015年9月23日, at the Wayback Machine.


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国共内戦」の記事における「上党戦役」の解説

しかし、同10月には会談空しく双十協定調印の日に、山西省で上党戦役がはじまる。共産党軍三日で、国民党軍投入した三分の一にあたる35000人を殲滅した。この戦争鄧小平活躍し、その名声が高まる。

※この「上党戦役」の解説は、「国共内戦」の解説の一部です。
「上党戦役」を含む「国共内戦」の記事については、「国共内戦」の概要を参照ください。

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