ロシアとイギリスとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)
「ヤクブ・ベクの乱」の記事における「ロシアとイギリスとの関係」の解説
19世紀の半ば、中央アジアへの進出をめぐって大英帝国とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。イギリスは1849年にはインド防衛のためにパンジャブ地方に進出し、ロシア帝国は1853年にシルダリヤに進出していた。 1868年、イギリスが特使を派遣してヤクブ・ベク政権を承認し、以後ヤクブ・ベクはイギリスから武器供給を受ける。イギリスとしては東トルキスタンをロシアとインドとの緩衝地帯にしようとしたのである。1870年、イギリスに遅れてロシアもヤクブ・ベク政権を承認した。 1870年には装備を整えたヤクブ・ベク軍はトゥルファンを攻略して東トルキスタン北部と河西回廊の連絡を断ち、白彦虎率いる陝西省・甘粛省の回民蜂起軍の残党を吸収して、勢力を増していった。1871年末までに妥明軍を破ってウルムチ・マナス・ピチャンを占領した。そのため同年にはロシアがイリ地方への進駐に踏み切った。 ヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、1872年には通商条約を締結して貿易を開始した。1874年にはイギリスも通商条約を結んで、大使を交換している。さらにオスマン帝国のスルタンのアブデュルアズィズからアミールに封ぜられ、軍事教官の派遣を受けた。
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