リチャード・ボイル (初代バーリントン伯爵)とは? わかりやすく解説

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リチャード・ボイル (初代バーリントン伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 06:10 UTC 版)

初代バーリントン伯爵
リチャード・ボイル
Richard Boyle
1st Earl of Burlington
生年月日 (1612-10-20) 1612年10月20日
出生地 アイルランド王国コーク県、ヨール(英語版)
没年月日 (1698-01-15) 1698年1月15日(85歳没)
配偶者 エリザベス・クリフォード
子女 一覧参照
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初代バーリントン伯爵、第2代コーク伯爵リチャード・ボイル(Richard Boyle, 1st Earl of Burlington, 2nd Earl of Cork, PC, 1612年10月20日 - 1698年1月15日)は、アイルランド大蔵卿[注 1]を務めたアングロ・アイリッシュ[注 2]イングランド貴族アイルランド貴族である。清教徒革命イングランド内戦)における騎士党王党派)のメンバーでもあった。

生い立ち

リチャードはアイルランド王国コーク県南東部のヨール(英語版)にある今日では「ザ・カレッジ」[注 3]と呼ばれる大邸宅で、初代コーク伯爵リチャード・ボイルとその2番目の妻、キャサリンとの間の第6子で次男として生まれた。キャサリンは国務長官(Principal Secretary of State)英語版ジェフリー・フェントン英語版の娘だった。「近代化学の祖」とされる化学者ロバート・ボイルは弟である。

1624年8月13日、リチャードはヨールにあった父の家で、アイルランド総督の初代フォークランド子爵ヘンリー・ケアリー英語版からナイトの称号を得た。彼はそれから毎年、年間1,500ポンドの手当で海外旅行へ行くようになった[3] :169

イングランド内戦

1639年、リチャードはチャールズ1世によるイングランド北部(英語版)への対スコットランド遠征に従軍させるために、100頭の馬を育て訓練を施し供給することを引き受けた。この件とまた別の件もあり、父はリチャードに5,553ポンドを提供した。リチャードは1640年に召集された長期議会アップルビー選挙区英語版の議員として帰還し、イングランド枢密院のメンバーとなったが、イングランド内戦勃発後王党派であったため除名された。

リチャードと初代インチクィン伯爵マロー・オブライエン英語版は、1642年9月3日リスカロールの戦い英語版で軍隊を指揮しアイルランド非正規軍を破って、その後10年間南アイルランドにおけるプロテスタントの勢力を維持した。アイルランドとの停戦協定は、1年後の1643年9月15日に締結された。彼はその後11月に、彼の軍隊をイングランドで仕えさせることの同意をチャールズ1世から得て、翌年2月にはチェスター近くに軍隊を上陸させた。それからリチャードはドーセットにいたチャールズ1世の援助のために行軍し、多額の支援を行った。

リチャードはイングランド内戦において、国王軍の最終的な敗北まで戦った。議会は彼に1,631ポンドの罰金を科し、彼はその後国外へ出た。1651年1月2日、リチャードは政府の要請でアイルランドに戻った[3]:169-170

爵位と役職

1642年9月2日、リチャードは弟ルイスの死により、第2代キナルミーキーのボイル子爵 (英語版) 位を承継した。翌1643年9月15日に父が亡くなり、第2代コーク伯爵位を承継、さらに翌1644年11月4日、チャールズ1世によりヨークシャーにおいてクリフォード・オブ・レーンズボロー男爵に叙爵された。

王政復古後、1660年2月22日にリチャードはヨークシャー州ウォーターフォード県の主席治安判事 [4] (Custos Rotulorum) になり、1660年3月19日には、前年11月30日のチャールズ2世の宣言に基づき、アイルランドとの和解を検討する協議会委員の一人に任命された。さらに1660年11月16日に枢密顧問官とアイルランド大蔵卿に任命された。1661年6月25日には、リチャードはアイルランド大蔵卿として、アイルランド貴族院 (英語版) において全ての貴族の上に立つこととなった [3] :172

1664年3月20日、リチャードはチャールズ2世によりバーリントン伯爵位を叙爵され、1666年3月13日にはヨークシャー統監に任命された[3] :172

リチャードは、他の貴族やアイルランド国教会主教達とともに、ジェームズ2世によるカトリック教会尊重の企てに反対し、1688年11月17日にジェームズ2世に対し議会を「いかなる状況下でも規則的かつ自由に」(regular and free in all its circumstances) 招集できるよう請願を行ったが、この申し出は拒絶された。ウィレム3世(後のウィリアム3世)がイングランドに到着すると、ジェームズ2世は議会を招集したアイルランドへ移り、反プロテスタント法を成立させて領地を没収した。その中にはリチャードの不動産も含まれていた。この処分は翌年にウィリアム3世により覆された[3] :173

家族

リチャードは1635年7月5日、スキップトン城 (英語版) で、第5代カンバーランド伯爵ヘンリー・クリフォード英語版の娘エリザベスと結婚した。リチャードは22歳、エリザベスは21歳だった。2人は以下の6人の子をもうけた[3] :174

バーリントン伯爵は1698年1月6日に亡くなり、2月3日にヨークシャーのロンデスボロー (英語版) で埋葬された。バーリントン伯爵位は孫のチャールズ・ボイルが承継した。

系譜図

バーリントン伯爵 (1664年創設、初代-第3代) 系譜図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード・ボイル
初代コーク伯爵
初代ダンガーヴァン子爵
(1566-1643)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード・ボイル
初代バーリントン伯爵
第2代コーク伯爵
第2代ダンガーヴァン子爵
(1612-1698)
 
 
 
 
 
ロジャー・ボイル
初代オーラリー伯爵
(1621-1679)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズ・ボイル
第3代ダンガーヴァン子爵
(1639-1694)
 
リチャード・ボイル
(1640年代-1665)
 
ロジャー・ボイル
第2代オーラリー伯爵
(1649-1682)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズ・ボイル
第2代バーリントン伯爵
第3代コーク伯爵
第4代ダンガーヴァン子爵
(1660-1704)
 
 
 
ライオネル・ボイル
第3代オーラリー伯爵
(1671-1703)
 
 
チャールズ・ボイル
第4代オーラリー伯爵
(1674-1731)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
リチャード・ボイル
第3代バーリントン伯爵
第4代コーク伯爵
第5代ダンガーヴァン子爵
(1694-1753)
 
 
 
 
ヘンリエッタ・ハミルトン
(-1732)
 
ジョン・ボイル
第5代コーク伯爵
第5代オーラリー伯爵
第6代ダンガーヴァン子爵
(1707-1762)
 
マーガレット・ハミルトン
(1710-1758)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハミルトン・ボイル
第6代コーク伯爵
第6代オーラリー伯爵
第7代ダンガーヴァン子爵
(1729-1764)
 
エドマンド・ボイル
第7代コーク伯爵
第7代オーラリー伯爵
第8代ダンガーヴァン子爵
(1742-1798)

注釈

  1. ^ アイルランド大蔵卿(Lord Treasurer of Ireland)(英語版)とは、アイルランド王国の最高財務責任者。1695年以降は第一大蔵卿(Lord High Treasurers of Ireland)となり、1817年まで続いた。
  2. ^ アングロ・アイリッシュ(Anglo-Irish)(英語版)とは、19世紀から20世紀初頭におけるアイルランドの特権的社会階級である[1]
  3. ^ ザ・カレッジ (The College) とは、イングランド女王エリザベス1世の寵臣で、アイルランドの大地主だったウォルター・ローリーからリチャードの父が購入した住居群の1つ[2]

脚注

  1. ^ The Anglo-Irish, Fidelma Maguire, University College Cork and Donnchadh Ó Corráin 2017年5月25日閲覧
  2. ^ Tyntes Castle. The Families of Tynte’s Castle . 2017年5月25日閲覧
  3. ^ a b c d e f John Lodge (英語版) , Mervyn Archdall (英語版) . "The peerage of Ireland; or, A genealogical history of the present nobility of that kingdom .." Dublin, J. Moore (1789) vol.1 2017年5月26日閲覧
  4. ^ ランダムハウス英和大辞典 custos rotulorum 2017年5月26日閲覧
イングランド議会 (en
先代
1629年から議会停会
アップルビー選挙区英語版選出庶民院議員
1640年 - 1642年
同一選挙区同時当選者
リチャード・ラウザー英語版:1640年
ジョン・ブルック英語版:1640年 - 1643年
次代
リチャード・サルウェイ英語版
ヘンリー・アイアトン
公職
空位
イングランド空位期英語版
最後の在位者
初代コーク伯爵
アイルランド大蔵卿英語版
1660年 - 1695年
次代
第3代コーク伯爵
名誉職
先代
バッキンガム公
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監
(英語版)

1667年
次代
バッキンガム公
先代
ダンビー伯
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監
(英語版)

1679年 - 1688年
次代
トマス・ハワード
先代
バッキンガム公
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー主席治安判事
(英語版)

1679年 - 1685年
空位
次代の在位者
トマス・ハワード
イングランドの爵位
爵位創設 バーリントン伯爵
1664年 - 1698年
次代
チャールズ・ボイル (孫)
レーンズボローのクリフォード男爵
(繰上勅書による承継)

1644年 - 1689年
次代
チャールズ・ボイル (子)
アイルランドの爵位
先代
リチャード・ボイル
コーク伯爵
1643年 - 1698年
次代
チャールズ・ボイル (孫)
ダンガーヴァン子爵
(繰上勅書による承継)

1643年 - 1663年
次代
チャールズ・ボイル (子)
先代
ルイス・ボイル
キナルミーキーのボイル子爵
1642年 - 1698年
次代
チャールズ・ボイル (孫)



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