ヨーク派の勝利とは? わかりやすく解説

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ヨーク派の勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)

薔薇戦争」の記事における「ヨーク派の勝利」の解説

ウォリック伯残存兵力合流したヨーク公エドワード軍勢西部からロンドンへ進軍した。同じ頃、王妃軍はダンスタブル撤退しており、1461年2月27日ヨーク公エドワードウォリック伯難なくロンドン入城できた。ロンドン市民は彼らを熱狂をもって迎えヨーク派は市当局から財政援助受けた。 この時点においてエドワードはもはや「君側の奸を除く」とは主張しなくなっており、この内戦は王位争奪となったヨーク派先年合意令に基づく正当な王位継承者ヨーク公リチャード)の殺害許したヘンリー6世王位にあり続け権利喪失した主張した3月4日、7人の聖俗諸侯からなる評議会ロンドン市民からの推戴受けたヨーク公エドワード王位についたエドワード4世)。彼はヘンリー6世マーガレット王妃処刑する国外追放するまで公式な戴冠式行わない誓った3月19日ヨーク軍がロンドン出立しエドワードウォリック伯は兵を集めつつ北上した3月27日から28日にかけてウォリック伯率い前衛部隊ランカスター派本拠ヨーク近くランカスター軍と衝突したフェリブリッジの戦い)。 3月29日ヨーク西方のタウトンで両軍決戦が行われた。このタウトンの戦い薔薇戦争最大戦いとなった強風降雪の中で数万の兵が衝突し終日戦われたこの会戦は、エドワード率いヨーク軍の決定的な勝利終わりランカスター軍は指揮官多く命を落として潰走した。ヨーク軍約12,000人、ランカスター軍約20,000人が戦死しており、イギリス本土において1日戦闘命を落とした数としては最大のものとなったヨーク待機していたヘンリー6世王妃そしてエドワード王子は、敗戦伝えられるスコットランドへ逃亡した生き残ったランカスター派貴族多く新国エドワード忠誠誓いそれ以外の者たちは北部国境地帯ウェールズ城塞立て籠もった。エドワードヨーク占領すると、城門掲げられていた父と弟ソールズベリー伯首級降ろさせ、代わりにウェイクフィールドの戦いの後にラトランド伯処刑したことで悪名高いクリフォードジョンはじめとするランカスター派貴族首級をさらさせている。

※この「ヨーク派の勝利」の解説は、「薔薇戦争」の解説の一部です。
「ヨーク派の勝利」を含む「薔薇戦争」の記事については、「薔薇戦争」の概要を参照ください。

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