ムワッヒド 【Muwahhid】
ムワッヒド朝
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ムワッヒド朝(アラビア語: المُوَحِّدُون, al-Muwaḥḥidūn, アル=ムワッヒードゥーン)は、ベルベル人のイスラム教改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年)である。首都はマラケシュ。
注釈
- ^ 東方への遊学でアカーリー派の学説とスーフィズムの影響を受けた[6]。またトゥーマルトはガザーリーに学んだと主張したが、現在の研究で否定されている[3][5]。
- ^ 那谷敏郎は「アブド・ル・ムーミニーン」、余部福三は「アブドゥルムーミン」、私市正年は「アブド・アルムーミン」と表記している[9][10][12]。
- ^ イフリーキヤにはシチリア王国からノルマン人が進出して海岸を占領、内陸部のムスリムたちが異教徒への不満を抱いた。この機に乗じて1151年からアルムーミンは東征を開始、翌1152年に中央マグリブ(アルジェリア)を征服、1159年にシチリア王国が神聖ローマ帝国と争いイフリーキヤが手薄になった好機を捉え、陸海双方で侵入しイフリーキヤ征服を達成、マグリブはほとんどがムワッヒド朝に統合された[20][21]。
- ^ ムラービト朝の王女ガーニヤの血を引くガーニヤ族はマヨルカ島を根拠地にしてしばしばチュニジアで反乱を扇動、1185年にはアブダッラー・イブン・ガーニヤがハンマード朝残党が起こした反乱に乗じてアルジェなどイフリーキヤの都市を占領、マンスールは軍を率いて討伐に向かったがゲリラの抵抗に遭い、チュニジア鎮圧は1188年までかかった。しかしその後もガーニヤ族の抵抗は続いたため、マンスールはアンダルス征服に集中出来ず、1197年にカスティーリャと和睦せざるを得なかった。マンスールの後を継いだナースィルは1203年にバレアレス諸島へ艦隊を派遣、マヨルカ島を征服したがガーニヤ族はイフリーキヤでゲリラ戦を継続、最終的な反乱平定はムワッヒド軍がガーニヤ族を撃破した1209年までかかった[33][37][38][39][40]。
- ^ アンダルスで混乱の最中に台頭したタイファも現れ、ムルシアでイブン・フード、ハエンでイブン・アフマル(後のナスル朝グラナダ王ムハンマド1世)らが立ち上がった。フードは民衆の支持を背景に勢力を拡大、1228年にムルシアへ入城しアッバース朝の宗主権を認め、その権威を掲げてアンダルス統一を目指したが、やがてカスティーリャ軍の前に劣勢となり臣従、1238年にアルメリア市民に暗殺された。かたやフードと争ったイブン・アフマルは彼が暗殺された後はカスティーリャに臣従、ハエンを割譲しつつもナスル朝を存続させた。一方、キリスト教諸国はカスティーリャに続いてアラゴンとポルトガルもレコンキスタを進め、バレアレス諸島とアンダルス東部のバレンシアはアラゴン王ハイメ1世が征服、西部もポルトガルに征服された[60][61][62]。
- ^ マンスールがルシュドを追放した事情には、1195年頃におけるキリスト教諸国との戦いを前にマーリク学派から支持を取り付ける必要があったからであり、マンスールは異教徒戦争遂行上寛容な見解を排除せざるを得なかった。またマーリク学派を異端としながら、官僚にする人材がマーリク学派の学者にしかいないため彼等を登用するというムワッヒド朝の矛盾も背景にあった[71][72]。
- ^ ムワッヒド軍は戦闘前にいくつものトラブルが発生、1211年にラバトからアンダルスへ渡る前に軍隊への補給を怠ったことを理由にナースィルがモロッコ人の役人たちを処刑、1212年の決戦前に十字軍へ城を明け渡した守備隊長を処刑してモロッコ人やアンダルス人の反感を買った。そのためムワッヒド軍の士気は低下、戦闘になるとタウヒード思想を失い戦意と王朝への帰属意識が無い兵士たちは逃亡、ナースィルも本営に敵が迫ると逃亡する有様でムワッヒド軍は大敗した[47][77][78][79]。
出典
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- 1 ムワッヒド朝とは
- 2 ムワッヒド朝の概要
- 3 歴史
- 4 社会・経済
- 5 系図
- 6 脚注
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