ポルトガルの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/12 15:25 UTC 版)
「スペイン・ポルトガル戦争 (1776年-1777年)」の記事における「ポルトガルの攻撃」の解説
1762年から1763年までの戦争(英語版)において、スペインは第一次セバーヨス遠征でコロニア・デル・サクラメント、サンタ・テクラ(Santa Tecla)、サン・ミゲル、サンタ・テレサ(英語版)、リオ・グランデ・デ・サン・ペドロ(英語版)を征服した。 1763年のパリ条約でコロニア・デル・サクラメントがポルトガル王国に返還されたが、サンタ・テクラ、サン・ミゲル、サンタ・テレサ、リオ・グランデ・デ・サン・ペドロはスペインが保持した。 1767年より、ポルトガル人は部隊を集めてスペイン人に繰り返し攻撃するようになった。その後の数年間、ポルトガルの部隊は6千人にまで増え、スペインの1,450人をはるかに上回った。1776年2月にアイルランド出身のロバート・マクドゥオール(Robert MacDouall)とジョルジ・ハードキャッスル(Jorge Hardcastle)がポルトガル艦隊を率いてリオ・グランデ・デ・サン・ペドロ要塞に近づき、砲撃し始めたことで戦線が拡大した。フランシスコ・ハビエル・モラーレス(Francisco Javier Morales)率いるスペイン艦隊がポルトガル艦隊との3時間にわたる海戦の末、ポルトガル艦隊を撃退した。このときの損害はスペインが戦死16、負傷24で、ポルトガルが船2隻を失った。 一方、ポルトガルの陸上部隊が前進し、スペインのフアン・ホセ・デ・ベルティス・サルセドは撤退してリオ・グランデ全域を放棄せざるを得なかった。
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