ボヤーレの政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:49 UTC 版)
「ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争」の記事における「ボヤーレの政権」の解説
1211年、ロマンら3兄弟はガーリチのボヤーレを弾圧した。年代記には500人が殺害されたと記されている。ボヤーレのコルミリチチ家はアレクサンドルをガーリチに迎えようと画策し、アレクサンドルもまた、ポーランド、ハンガリー、弟フセヴォロド(ru)、イングヴァリの子(年代記には名が記されていない)と共に3兄弟を攻めた。ヴォルィーニ・イジャスラフ家のムスチスラフ(通称ネモーイ)もこれに加わった。連合軍はまずペレムィシュリを攻めてスヴャトスラフを捕らえると、次いでズヴェニゴロドを囲んだ。テレボヴリ公イジャスラフがポロヴェツ軍と共に救援に向かったが、リュタ川で撃破された。ズヴェニゴロドを守るロマンは都市から脱出するも捕らえられ、ズヴェニゴロドは降伏した。残るウラジーミルはガーリチから撤退したため、連合軍はこれを追撃した。連合軍はネズダ川で再びイジャスラフ軍を破り、ウラジーミルも捕獲された。招聘されていたロマンら3兄弟が駆逐された後、ガーリチ公位はかつてのウラジーミル・ヴォルィーニ公ロマンの子・ダニールに与えられた。『ガーリチ・ヴォルィーニ年代記(ru)』によれば、ロマンら3兄弟は絞首刑に処されたと記されている。一方、『ノヴゴロド第一年代記(ru)』は、ガーリチで絞首刑となったのは2人だと記している。 公位を与えられたダニールであったが、ガーリチのボヤーレ・コルムレニチチ家のウラジスラフ(ru)は即座にこれを追放し、自身がガーリチ公位についた。アンドラーシュ2世がダニールへの公位返還を求めたが、ウラジスラフはヴォルィーニ・イジャスラフ家のムスチスラフ・ネモーイに公位を渡したため、ダニールは再びハンガリーへ退避した。弟のヴァシリコはベルズ公位をしばらく維持していたが、1213年にレシェクはこれを取り上げ、アレクサンドルに与えた。また、先にヴォルィーに公領としていたブク川西岸の地を、再度自領に戻した。 その後、ウラジスラフはハンガリー軍、チェコ軍からの支援を取り付けることに成功し、再びガーリチ公位に就いた。この時、ダニールは母と共にレシェクに引き取られており、これを利用したレシェクは、アレクサンドル、その弟フセヴォロド、ムスチスラフ・ネモーイと共にガーリチを攻めた。1213年、ウラジスラフとハンガリー、チェコ軍はボブルカ川で敗北するが、ガリーチの防衛には成功した。 この遠征により、アンドラーシュ2世との間に不和が生じたため、レシェクは自身の娘サロメアと、アンドラーシュ2世の子カールマーンとの間に婚儀を結び、ローマ教皇インノケンティウス3世の元、カールマーンをガーリチの王とする宣言をなした。1214年にSpišで結ばれた協定に従い、ハンガリー・ポーランド連合軍が編成され、ガーリチを陥した。ガーリチ公位はカールマーンに与えられ、レシェクはペレムィシュリを手中に収めた。ウラジスラフは捕縛され、処刑された。また、アレクサンドルはヴォルィーニ公位の放棄を迫られ、ベルズに戻った。
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