ベネトンF1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:58 UTC 版)
「フラビオ・ブリアトーレ」の記事における「ベネトンF1」の解説
ブリアトーレはそれ以前にフォーミュラ1 (F1) に関して特に興味は持っていなかったが、1988年のオーストラリアグランプリからこのスポーツに関わることになった。ベネトンはブリアトーレを、自ら所有するF1コンストラクターであるベネトン・フォーミュラのコマーシャル・ディレクターに据えたのだった。翌1989年6月、チームマネージャーのピーター・コリンズがチーム内で発生していたフォード首脳部との内部抗争に敗れ解雇されると、ブリアトーレは後任としてマネージング・ディレクターに昇格しベネトンを競争力のあるチームに変えるべく活動を始めた。 ブリアトーレは1990年に、マクラーレン・フェラーリ等で多くのマシンを手がけたデザイナーであるジョン・バーナードを獲得したが、翌1991年のカナダGP直後に解雇した。同年には当時スポーツカー世界選手権(SWC)でジャガーチームを率いていたトム・ウォーキンショーを招聘。ジョーダンでデビューしたばかりの若いミハエル・シューマッハを引き抜くという先見の明を見せた。 1992年にはバーナードの後釜として、前年にベネトンからレイナードに移籍していたデザイナーのロリー・バーンを呼び戻し、これにウォーキンショーの部下として一緒にベネトンに移ってきたロス・ブラウンを加えた陣容は非常に強力なものとなった。シューマッハは1992年、1993年シーズンに勝ち星を重ね、ついに1994年にベネトンに初のドライバーズ・チャンピオンをもたらした。
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