ブール=ラ=レーヌとは? わかりやすく解説

ブール=ラ=レーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/08 02:21 UTC 版)

Bourg-la-Reine

行政
フランス
地域圏 (Région) イル=ド=フランス地域圏
(département) オー=ド=セーヌ県
(arrondissement) アントニー郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 92014
郵便番号 92340
市長任期 ジャン=ノエル・シュヴロー
2008年-2014年
自治体間連合 (fr) メトロポール・デュ・グラン・パリ
人口動態
人口 19,615人
2007年
人口密度 12,990人/km2
住民の呼称 Réginaburgiens
地理
座標 北緯48度46分47秒 東経2度18分54秒 / 北緯48.779624度 東経2.315068度 / 48.779624; 2.315068座標: 北緯48度46分47秒 東経2度18分54秒 / 北緯48.779624度 東経2.315068度 / 48.779624; 2.315068
標高 最低:43m
最高:77 m
面積 1.51km2
Bourg-la-Reine
公式サイト bourg-la-reine.fr
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ブール=ラ=レーヌBourg-la-Reine)は、フランスイル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県コミューン

地理

ビエーヴル川左岸にあるブール=ラ=レーヌは、南をアントニー、北西をバニュー、北東をカシャン、東をライ=レ=ローズ、南と西をソーと接する。

交通

  • 道路 - N20
  • 鉄道 - RER B線ブール=ラ=レーヌ駅。

由来

12世紀初頭、ブルグム・レギナエ(Burgum Reginæ)の名で呼ばれていた。多くの仮説で取り上げられる、王妃(La Reine)にまつわるという由来は疑問視されている。フランス革命時代、短期間ブール=エガリテ(Bourg-Egalité)と改名させられていた。

歴史

1247年、サント=ジュヌヴィエーヴ修道院の聖職者であるモレオンのトマがブール=ラ=レーヌの領主となり、住民を農奴の身分から解放した[1]

ブール=ラ=レーヌの近くにはハンセン病患者の共同体があり、ビュルビエンヌ(Bulbienne)の名で呼ばれていた。シャルル9世はビュルビエンヌをパリのオテル・デュー(病院)に与えた。1564年、ビュルビエンヌは取り壊された。

1152年にモンマルトル修道院が建てた教会は、ユグノー戦争中の1567年にユグノーに略奪され放火され、廃墟となった。1600年、コミューンは市街を城壁で囲む許しをもらった。コミューンへ入るためもうけられた2箇所の門は、19世紀まで残っていた。

アンリ4世はブール=ラ=レーヌに広い庭園を備えたカントリー・ハウスを建て、愛妾ガブリエル・デストレに与えた。1722年、ルイ15世はこの館をスペイン王女へ与えた[1]

19世紀まで、ブール=ラ=レーヌでは陶器製造が盛んであった。

姉妹都市

出身の有名人

脚注

  1. ^ a b Dictionnaire historique des environs de Paris du docteur Ermete Pierotti




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