ブントと1960年安保闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:52 UTC 版)
「日本の新左翼」の記事における「ブントと1960年安保闘争」の解説
一方、同時期である1955年に日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開催し、中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争路線を正式に放棄した。これに不満を持つ学生党員は、1958年に共産主義者同盟(ブント)を結成し、「暴力革命」路線を掲げた。 1959年、岸信介内閣が日米安全保障条約の永続化を目指すと、普段は政治と接点のない一般国民の間からも激しい反発の声が上がった。日本社会党・日本共産党が、突出した闘争で支持者が離れることを恐れて請願デモしか行わない中、共産主義者同盟(ブント)に結集した全日本学生自治会総連合は、国会突入などの実力行使で一部の国民から喝采を浴びた(60年安保闘争)。「闘わない既成左翼、闘う新左翼」とは、この頃新左翼の側から発生した表現である。 安保闘争は連日数十万人のデモが国会を包囲する未曾有の高揚を示したが、日米安全保障条約は成立。一方で岸内閣は総辞職する。共産主義者同盟(ブント)は「条約成立を阻止できなかった以上、運動は敗北であった」と総括し、四分五裂の分裂を開始することになる。
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