パリオリンピックとその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 17:19 UTC 版)
「田代菊之助」の記事における「パリオリンピックとその後」の解説
田代の代表選手としての決定に変更はなかった。オリンピックではマラソンに出場したが、20km付近で倒れ、棄権した。 1925年(大正14年)には5000mで日本記録(16分10秒6)樹立。 1927年の箱根駅伝(第8回)ではアンカーを務め、中央大学を準優勝に導いた。箱根駅伝には翌1928年(第9回)も出場している。 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』編纂時点では、帝国生命保険会社大阪支店勤務。
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