ディオニュシオス、カルタゴ領を攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:18 UTC 版)
「メッセネの戦い (第二次シケリア戦争)」の記事における「ディオニュシオス、カルタゴ領を攻撃」の解説
紀元前398年、ディオニュシオスはカルタゴに全権大使を送り、シケリアの全てのギリシア人都市の支配権を彼に認めない限り、宣戦を布告すると伝えた。大使が帰国するに先立ち、傭兵を使ってシュラクサイ領土に住んでいるカルタゴ人に剣を突きつけ、その財産を没収した。さらに、200隻の軍船と補給物資・武器を積んだ500隻の輸送船を伴い、陸軍と共にモティアに向かった。ディオニュシオスとその陸軍は、シケリアの南岸に沿って西方に進軍した。それに伴ってカルタゴ支配下にあったギリシア人都市は反乱し、居住していたカルタゴ人を殺してその財産を奪い、兵を送ってディオニュシオスに合流した。カルタゴ側に残ったシケリアの都市は、モティア、パノルムス(現在のパレルモ)、ソルス(現在のサンタ・フラーヴィアのソルントゥム遺跡)、アンキラエ、セゲスタ(現在のセジェスタ)およびエンテラ(現在のコンテッサ・エンテッリーナ)のみとなった。シケル人、シカニ人およびメッセネもまた兵を送ったため、モティアに到着した際にはディオニュシオスの軍は歩兵80,000、騎兵3,000にまで膨れ上がっていた。ディオニュシオスはエリュクス(現在のエリーチェ)を占領し、セゲスタとエンテラを包囲し、続いてモティアを攻撃した。
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