テューダー朝における統合の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/18 09:06 UTC 版)
「王冠連合」の記事における「テューダー朝における統合の試み」の解説
「グリニッジ条約」も参照 1502年、数世紀もの間にわたるイングランド・スコットランド間の紛争を終わらせるべく、永遠平和条約(英語版)が締結された。これにより、1503年8月、スコットランド王ジェームズ4世がイングランド王ヘンリー7世の娘マーガレットと結婚した。2人の結婚により、イングランドのテューダー朝の王位継承順位(英語版)にスコットランドのステュアート朝が入り、この結婚がもつ意味合いはウィリアム・ダンバー(英語版)の『あざみとばら(英語版)』で描写された。この時点ではスコットランドの王族がイングランド王位を継承する可能性は低いものの、イングランド枢密院(英語版)などそれを憂慮する声も多く、ヘンリー7世はこれに対し「たとえそうなったとしても、わが国は何もダメージを受けない。なぜなら、その場合はイングランドがスコットランドに併合されるのではなく、スコットランドがイングランドに併合されるからだ。[...]わが先祖であるノルマンディー人がやってきてイングランドを統治したように。」と返答したとされる。 イングランド・スコットランド間の平和は「永遠」には続かず、1509年にイングランド王に即位したヘンリー8世が1513年にフランス王国に宣戦布告すると(カンブレー同盟戦争)、フランスはスコットランドとの古い同盟を発動、ジェームズ4世はフランスの求めに応じて出兵、イングランド北部(英語版)に侵攻した。これによりフロドゥンの戦い(英語版)が生起し、ジェームズ4世は戦死した。その後の数十年間のイングランド・スコットランド関係も穏やかなものではなかった。 ヘンリー8世の治世中盤になると、1503年時点ではほとんど取り上げられなかった王位継承問題が浮上した。マーガレットの子孫はこの時点ではイングランドの王位継承権を認められなかったが、王位継承問題はエリザベス1世の治世で再び浮上し、エリザベス1世の晩年にはジェームズ4世とマーガレットの曾孫にあたるスコットランド王ジェームズ6世のみが広く受け入れられる人選となった。
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