テュルケシの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:02 UTC 版)
「民族主義者行動党」の記事における「テュルケシの死後」の解説
1997年に党首のテュルケシが病没すると、テュルケシの息子トゥールル・テュルケシ(英語版)と、デヴレト・バフチェリによる後継争いが行われたが、1997年7月の党大会にてバフチェリが党首に選出された。 バフチェリは、党の路線を穏健化させ、非合法路線を放棄した。1999年の総選挙では、選挙直前にクルディスタン労働者党のオジャランが逮捕され、保守層の民族意識が高揚したこともあり、民族主義者行動党は、前回選挙の倍の得票を得て、議会第2党に躍進した。選挙後は、民主左派党、祖国党と共に民主左派党党首エジェヴィトを首班とする連立政権を樹立。バフチェリも副首相として入閣した。エジェヴィト政権は、2000年末の金融危機を発端に求心力を失ったため、2002年の総選挙では、公正発展党の躍進の前に民族主義者行動党は惨敗し、国会内の議席を失った。 2007年の総選挙では、党勢を盛り返し、アナトリア中部を中心に票を集め、国会内の議席を回復して、議会第三党となった。2011年の総選挙ではやや議席を減らしたものの、2015年6月の総選挙では80議席を得て躍進した。しかし同年11月の再選挙では、議席を半減させ議会第四党に落ち込んだ。
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