テオドロス1世の復権と分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 16:26 UTC 版)
「テッサロニキ帝国」の記事における「テオドロス1世の復権と分裂」の解説
一方ブルガリアでは、イヴァン・アセン2世がテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの娘エイレーネー・コムネナ・ドゥーカイナ(イリナ・コムニナ)と恋に落ち、彼女と結婚していた。これによりブルガリアの支援を得たテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスは、1237年にテッサロニキに帰還し、弟マヌエルを廃位した。彼自身は盲目にされたため皇帝に復位することができず、代わりに息子ヨハネス・コムネノス・ドゥーカスを帝位につけて、自らは事実上の摂政として実権を握った。マヌエルは脱出してニカイア帝国に逃れ、ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスに臣従した。ニカイアを後ろ盾としたマヌエルは、1239年に海路テッサリアに戻り、テッサロニキへ進軍した。彼がラリサまで制圧したところでテオドロス1世との妥協が成立した。すなわちテオドロス1世とその子孫がテッサロニキを保持する一方で、マヌエルはテッサリアの支配を認められたのである。また他の兄弟のコンスタンティノス・コムネノス・ドゥーカスも、1220年代からアパナージュとして支配していたアイトーリアやアカルナニアの支配を認められた。マヌエルは1241年に死去するまでテッサリアを支配し、その後テッサリアはすぐにミカエル2世コムネノス・ドゥーカスに占領された。
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