チョクトー族の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/26 01:26 UTC 版)
ルイジアナ植民地の知事でニューオーリンズの創始者でもあるジャン=バプティスト・ル・モワン・ド・ビエンビーユは、チカソー族とイギリスとの交易を止めさせようと考えた。1721年、ド・ビエンビーユは友好関係にあったチョクトー族を煽り立てて、チカソー族の集落を襲わせたり、チャールストンに至る交易路で隊商を襲わせた。これに反発したチカソー族は、その集落をより緊密に編成し直して防御を固め、1723年にはサバンナタウンの集落を創ることで、武器の供給源であるイギリスとの結びつきを強めた。続いて今日のメンフィスの近くにあるチカソー絶壁を占領することでミシシッピ川のフランスの交通を抑え、チョクトー族とは和平の取引をした。ド・ビエンビーユ自身は1724年にフランス本国へ呼び戻された。 フランスはそれに続く数年間、断続的にインディアン間の紛争を再燃させることに成功した。チョクトー族はその得意な奇襲戦法を多用し、狩猟隊を襲い、交易業者の馬を殺し、数的優勢を恃んでチカソー族を砦に追い込んだ後で農作場を破壊し、また和平の使者を殺したりした。イリニ族とイロコイ族が北方から偶に加わることがあった。この消耗戦争はチカソー族を疲弊させ、1730年代遅くと特に1740年代初期に危機的な状況にさせた。チョクトー族の内紛によって一時中断される時期があったが、血腥い嫌がらせは1750年代に再開された。チカソー族は意固地になり、その立場はイギリスとより密接に結びつけられることになった。 1734年、ド・ビエンビーユがルイジアナに戻ってきて、ヨーロッパのやり方でチカソー族に対する大々的な作戦を始めた。
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