ダライ・ラマ6世の死後
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「ダライ・ラマ6世」の記事における「ダライ・ラマ6世の死後」の解説
ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォの廃位にともない、ホシュート部は代わりの「ダライ・ラマ6世(対立ダライ・ラマ6世)」としてイェシェー・ギャツォ(英語版)(1686–1725)を擁立したが、チベット人の支持を得られなかった。チベット人は1708年にリタンで生まれた少年(後のケルサン・ギャツォ)をダライ・ラマ7世と信じた。この少年は1716年、青海湖近くにあるクンブム寺(塔爾寺)に移され、育てられた。 1717年、オイラトの別の部族であるジュンガル部がホシュート部を破り、チベット人に不人気の対立ダライ・ラマ6世イェシェー・ギャツォを廃位した。清はこれに対抗して軍を出すが苦戦し、1720年に正式に即位したダライ・ラマ7世ケルサン・ギャツォを引き連れてようやくラサを占領した。以後、清のチベット支配が進んでいくこととなった。
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