セイディ・アリ・レイースによる遠征とは? わかりやすく解説

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セイディ・アリ・レイースによる遠征(1553年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 04:42 UTC 版)

オスマン帝国のインド洋遠征」の記事における「セイディ・アリ・レイースによる遠征(1553年)」の解説

ムラト・レイース失敗を受け、同年のうちにセイディ・アリ・レイースが後任についた。彼はバスラ放棄されたも同然の状態のガレー船修理した後に出航しホルムズ海峡からオマーン抜け過程ポルトガル艦隊2度遭遇戦行い、さらに地元住民から「象嵐」(tufan’ı fil)と呼ばれる強烈なサイクロンにも襲われた。オマーン湾海戦ポルトガル艦隊惨敗喫したセイディ・アリ・レイースは命からがらグジャラートまで逃げたが、その船団はわずか6隻にまで減ってしまった。彼らはインド艦隊15年来の目的地であったインドにたどり着いたとはいえ、もはや艦船使い物にならなくなっていたため、セイディ・アリ・レイースは50人の生存者とともに陸路イスタンブル帰ることにした。途中で彼らはデリー立ち寄りムガル帝国再興したばかりのフマーユーンと、その子12歳アクバル謁見している。 オスマン帝国サファヴィー朝戦争中だったため、インドからトルコへ帰還極めて困難と思われたが、1555年アマスィヤの講和成立し停戦したことで、ようやくセイディ・アリ・レイースらは帰還を果たすことができた。彼は国々の鏡 (Mir’at ül Memalik) という旅行記著し1557年スレイマン1世献じた。これはトルコ文学におけるもっとも古い旅行記一つとされている。

※この「セイディ・アリ・レイースによる遠征(1553年)」の解説は、「オスマン帝国のインド洋遠征」の解説の一部です。
「セイディ・アリ・レイースによる遠征(1553年)」を含む「オスマン帝国のインド洋遠征」の記事については、「オスマン帝国のインド洋遠征」の概要を参照ください。

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