スターリン批判とハンガリー動乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:52 UTC 版)
「日本の新左翼」の記事における「スターリン批判とハンガリー動乱」の解説
1956年ソ連共産党第20回大会において、全ソ労評議長としてスターリンに仕えたニキータ・フルシチョフ党第1書記が、スターリンの独裁・個人崇拝・粛清を暴露し(スターリン批判)、国際共産主義運動の玉座から引き摺り下ろした。日本共産党をはじめとする西側の各共産党指導部は、この批判に対して無反応であった。しかし、各国共産党内のとりわけ青年・学生部分は重大事と受け止め、1956年のハンガリー動乱の衝撃によって、急進的な学生を中心にコミンテルン直流の共産党からの訣別が加速されることになった。日本でも、黒田寛一、太田竜らが、それまで在籍した共産党から訣別して、1957年に日本トロツキスト連盟(58年に革命的共産主義者同盟に改組)を結成した。しかし、トロツキスト連盟組織内部において、トロツキズムを受容し国際組織第四インターナショナルに加盟することを主張するグループ(太田竜、西京司ら)と、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スターリン主義による前衛党建設」を主張するグループ(黒田寛一、本多延嘉ら革命的共産主義者同盟全国委員会派)に分裂していく。
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