スコットランド貴族のマーチ伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 14:52 UTC 版)
「マーチ伯爵」の記事における「スコットランド貴族のマーチ伯」の解説
イングランドのウィリアム征服王からノーサンブリア伯(英語版)に叙されたゴスパトリック(英語版)(-1023以降)は地位を追われてスコットランドに逃亡し、スコットランド王マルカム3世からダンバー(英語版)や隣接した所領を与えられた。伯爵位を与えられていたが、当初この爵位には領土設定がなく、曽孫のワルセオフ(英語版)(-1182)の代の1174年頃にダンバー伯爵(英語版)になっているのが確認される。子孫のダンバー伯パトリック4世(英語版)(1242-1308)は、1291年、女王マーガレットの崩御後の王位継承争いの中で王位を請求した13人の人物の一人である。彼はウィリアム1世の娘エイダの子孫と主張してスコットランド王位を請求した。彼が最初にマーチ伯として言及される人物である。子孫のマーチ伯ジョージ・ダンバー(英語版)(1340–1420)は、娘をロバート3世の息子ロスシー公デイヴィッド・ステュアート(英語版)と結婚させようとしたが、彼はダグラス家のマージョリーと結婚してしまった。さらにダグラス家に押収されたマーチ伯領を返せ、返さぬでロバート3世と対立し、スコットランドを捨ててイングランド王ヘンリー4世に迎え入れられた。ホミルドン丘の戦い(英語版)にイングランド側で参戦し、1403年のシュルーズベリーの戦い(英語版)でもダグラス家と同盟したパーシー家と戦った。しかし1409年にはダグラスと和解してスコットランドへ帰国し、摂政オールバニ公ロバート・ステュアートによりマーチ伯に復帰された。その息子のマーチ伯ジョージ・ダンバー(英語版)(1370頃–1457)は、1423年に当時イングランドに捕らえられていたジェームズ1世の釈放のための交渉者の一人となったが、王の帰国後にはオールバニ公爵家の粛清が行われ、1434年にはオールバニ公にはマーチ伯の父の反逆罪・所領没収を取り消す権限はなかったとされて投獄のうえ領地や爵位を没収された。最初のマーチ伯はこれをもって終焉した。 ついでジェームズ2世の次男アレグザンダー・ステュアート(英語版)(1455頃–1485)は1455年以前にマーチ伯に叙され、ついで1455年から1458年の間にオールバニ公に叙された。兄王ジェームズ3世と対立していたため、爵位が剥奪されていた時期もある。その息子のオールバニ公ジョン・ステュアート(英語版)(1481–1536)の死去で爵位は廃絶した。 ついで第3代レノックス伯爵(英語版)ジョン・ステュアート(英語版)の次男ロバート・ステュアート(英語版)(?-1586)が1582年にダンバー伯爵とともにマーチ伯爵位が与えられたが、継承者がいないため彼一代で廃絶した。 ついで初代クイーンズベリー公爵ウィリアム・ダグラスの次男ウィリアム・ダグラス(1665頃–1705)が1697年4月20日にマーチ伯に叙された。その孫の3代マーチ伯ウィリアム・ダグラス(1725–1810)は、クイーンズベリー公爵位を継いだ。彼の死後は初代マーチ伯の女系子孫の第8代ウィームズ伯爵フランシス・チャータリス(英語版)(1772–1853)が継承した。以降ウィームズ伯爵チャータリス家が代々マーチ伯爵位の継承を続けている。2020年現在の保有者は第13代ウィームズ伯爵ジェームズ・チャータリス(英語版)(1948-)である。
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