カリヨンの戦い以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 15:20 UTC 版)
「タイコンデロガの戦い (1759年)」の記事における「カリヨンの戦い以後」の解説
現在のペンシルバニア州の西部と、ニューヨーク州北部の領土争いに端を発し、1754年に勃発したフレンチ・インディアン戦争で、1756年から1757年に連敗を喫したイギリス軍の状況は、1758年に好転しはじめた。ルイブールの戦いとフォート・フロンテナックの戦いで勝利したのである。この年のフランスの主だった勝利は、ジェームズ・アバークロンビー率いるイギリスの大陸軍が、少人数のフランス軍に完敗したカリヨンの戦いであった。その年の冬、フランスの指揮官たちは、駐屯兵のほとんどをフォート・カリヨン(イギリス軍にとってはタイコンデロガ砦)から撤退させて、ケベック、モントリオール、そして、五大湖とセントローレンス川の要塞を守らせた。 カリヨンはシャンプラン湖の南に位置しており、サミュエル・ド・シャンプランが、1609年にここを発見する以前から、戦略上重要な場を占めていた。シャンプラン湖とジョージ湖をつなぐ要衝たる陸路へと通じており、しかも、ハドソン川とセントローレンス川の間を走る主要道路に沿っていた 。戦争が始まった時、この地はイギリス領ニューヨークと、フランス領カナダ(ヌーベルフランス)の間の辺境の一部で、ここよりもやや南の方で行われた1755年のジョージ湖の戦いで、イギリス軍がフランスの進撃を止めた。
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