カポレットの悲劇とピアーヴェの勝利
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「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」の記事における「カポレットの悲劇とピアーヴェの勝利」の解説
戦線崩壊の瀬戸際に追い込まれていたオーストリア軍の救援に訪れたドイツ軍は、カポレットの戦いで新戦術(浸透戦術)をもってイタリア陸軍に致命的な打撃を与えた。イタリア陸軍は1917年10月24日から1917年11月9日までの間に30万人以上の兵士を失い、地道に押し広げてきたイゾンツォ川の戦線から止むを得なく引き下った。イタリア政府のヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相は、敗戦の責任者でありオーストリアとの単独和平を主張したルイージ・カドルナ大将を解任し、新たにアルマンド・ディアズ大将を総司令官に任命した。 ディアズ将軍は連合軍の支援を受けながら打撃を負った軍の再建に尽力し、ヴェネツィアへ追撃していた独墺軍をピアーヴェ川で押し留めた。1918年6月、ディアズ将軍率いるイタリア陸軍はロンバルディアを目指すオーストリア軍をピアーヴェ川の戦いで打ち破り、オーストリアは17万名の兵士を失って敗退した。連合軍司令部はイタリアに対し、一挙にオーストリアを打ち崩す反攻作戦を要請した。またイタリア政府もこれを強く望んだが、慎重なディアズ将軍は安易な反撃に転じる事の危険性を理解していた。彼は十分な戦力が整い、かつ墺軍が機会を見せる時を用心深く待った。
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