エアフルト会議
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エアフルト会議(エアフルトかいぎ)は、1808年9月27日から10月14日にかけて、フランス皇帝ナポレオン1世とロシア皇帝アレクサンドル1世の間で開かれた会談。前年に締結した第四次対仏大同盟の講和条約であるティルジットの和約の内容を再確認する内容であった[1]。
- ^ Steffen Raßloff (2012). Geschichte der Stadt Erfurt. Erfurt: Sutton Verlag.
- 1 エアフルト会議とは
- 2 エアフルト会議の概要
エアフルト会議
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「エアフルト会議」の解説
ティルジットにてナポレオンはアレクサンドルを賞賛したが、1808年の9月から10月に行われたエアフルト会議(英語版)までに、ロシアの宮廷では反フランス感情が高まり、新たな仏露同盟を脅かそうとしていた。ナポレオンと外務大臣のシャンペイン(英語版)はエアフルト会議でオーストリアを牽制し、軍の主力をイベリア半島に注力するために仏露同盟を再確認する事を意図した。またナポレオンと前外務大臣のタレーランの間で意見の食い違いがあり対立していた。タレーランはナポレオンと彼の戦争政策がフランスを破滅に導いていると結論を下し、アレクサンドルにナポレオンの野望に抵抗するよう密かに忠告した。 エアフルト会議ではイギリスに対してフランスとの戦争を止めるようロシアが呼びかける事、ロシアのフィンランドの征服をフランスが承認する事、オーストリアとの戦争が開始された際にロシアはフランスを”可能な範囲で”助力する事が合意された。10月14日に両皇帝は祖国に戻るためにエアフルトを出発した。6ヶ月後、予想されていたオーストリアとの戦争が開始され、アレクサンドルはナポレオンとの合意に形だけ応えるため、フランスに対して最小限の援助をした。その後1810年までに主に大陸封鎖令の実施による経済的圧力によって両皇帝はお互いに戦争をする事を考え始めた。エアフルトはフランスとロシアの指導者にとって最後の会議となった。
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