アバディーン伯爵内閣の重鎮
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「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)」の記事における「アバディーン伯爵内閣の重鎮」の解説
1851年12月にパーマストン子爵が外相を解任され、翌1852年2月にパーマストン子爵と彼の派閥のホイッグ議員が造反し、ジョン・ラッセル卿内閣は総辞職した。代わってダービー伯爵の保守党政権が発足するも少数与党政権であるため、野党三派(ホイッグ党、ピール派、急進派)の間ですぐにも倒閣機運が高まった。ただジョン・ラッセル卿とパーマストン子爵のホイッグ二巨頭の対立が続いていたため、保守党政権打倒後の首相の選定が悩ましかった。そうした中でジョン・ラッセル卿からもパーマストン子爵からも信頼されているランズダウン侯爵が首相として適任と考えられるようになった。第7代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル(ジョン・ラッセル卿の兄)らホイッグ貴族が中心となってランズダウン侯爵を首相に据える「ランズダウン計画(Landsdowne Project)」が推進された。 1852年12月に保守党の予算案は否決され、ダービー伯爵は女王に辞表を提出した。女王はランズダウン侯爵に大命を与えようと彼をオズボーン・ハウスに召集したが、この時期ランズダウン侯爵は痛風を病んで静養中であり、オズボーン・ハウスまで行くことができなかった。当時72歳だった彼は首相就任どころか政界引退を希望していた。女王から辞退するなら適任と思う首相を推薦するよう求められたランズダウン侯爵はピール派のアバディーン伯爵を推挙し、女王はその推挙に従ってアバディーン伯爵に大命を下している。 アバディーン伯爵内閣の閣僚人事も難航した。ピール派や急進派は強硬外交家のパーマストン子爵の外務大臣就任に反対しており、一方パーマストン子爵は外相以外のポストは受けないと主張していた。ランズダウン侯爵はパーマストン子爵を説得し、ついに内務大臣ポストで納得させた。内閣が無事発足させられる見込みとなるとランズダウン侯爵は政界引退しようとしたが、アバディーン伯爵やジョン・ラッセル卿から慰留されたために折れ、無任所大臣としてアバディーン伯爵内閣に入閣することになった。 同内閣でジョン・ラッセル卿は選挙法改正を推し進めようとしたが、パーマストン子爵がそれに反対し、パーマストンが辞職を表明する事態にまで陥った。この政治危機もクリミア戦争の勃発とランズダウン侯爵の仲裁のおかげで延期という形で収束させることができた。
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