アクシデントと引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 04:23 UTC 版)
「マルコ・マルティン」の記事における「アクシデントと引退」の解説
2005年からは、フランスの大メーカー、プジョーに移籍するが、前年から投入された307WRCの挙動に馴染めず苦戦。フィンランドから投入されたプログレッシブ・ダンパーがドライビングにマッチし3位に入るものの、フォード時代の速さは影を潜めてしまう。 その不調のなか、不幸な出来事が襲う。2005年9月18日のラリーGBレグ3、序盤のSSの左コーナーでクラッシュ。不運なことに、そのコーナー側にあった立ち木が助手席側にめりこむ形でマシンはストップ。この事故によって、全幅の信頼を置いていたコ・ドライバーのマイケル・パークが亡くなってしまう。この出来事によって、ラリーGB以降の参戦を見合わせ、その年の終盤、正式にWRC引退を表明した。ラリーGBでのアクシデントが原因かと囁かれたが、後のインタビューでWRCにおけるドライバーのコスト的負担や、運営がスポンサー寄りになりつつある風潮に嫌気がさし、30歳を区切りとして引退するつもりでいたと明かした。 引退後、ラリー界に関わることはないとコメントしていたが、2008年から再起を狙う古巣スバルに復帰し、インプレッサWRC2008の開発に携わる。スバルのWRC撤退後はフォードでフォーカスWRCとフィエスタS2000およびフィエスタWRCの開発に関与し、また2010年9月にはミニ・ジョン クーパー ワークス WRCのテストにも参加した。 一方で個人所有のラリーチームを結成し、エストニア・ラリー選手権に若手を送り込んでいる。母国の後輩オィット・タナックのWRCへのステップアップを支援し、その後もタナックの個人マネージャーを務めている。自身は競技生活からは一切離れる予定であったが、近年ポルトガルやエストニアなどのWRCおよびインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ (IRC) 以外のラリーイベントにエントリーするようになった。
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