「イヤダカラ、イヤダ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 20:38 UTC 版)
1967年(昭和42年)に日本芸術院の会員候補になるが、そのことを知った百閒は、法政大学時代の教え子で「摩阿陀会」の肝煎でもあった多田基にメモを渡し、その内容を同院の高橋誠一郎院長に伝えるように依頼した。メモには、芸術院に入るのはいやで、なぜいやかというと気が進まないからで、なぜ気が進まないかとというといやだから、ということが記してあった。推薦段階で辞退した文学者は、百閒の他に、高村光太郎、大岡昇平、武田泰淳、木下順二がいる。また、戦時中には中里介山とともに日本文学報国会への加入を拒んだこともあった。
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