春日家系譜 高坂弾正 子孫のうち 岡山-大阪系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 07:06 UTC 版)
解説
武田家家臣であり武田晴信 (信玄)・勝頼に仕え、武田四天王のうちの一人であった高坂弾正の嫡流は途絶えているとされるが、その血脈の子孫は複数の系統が有る事が知られている。そのうちの岡山に移住して備前候に使えそののち大阪へ移った春日家の系譜をまとめる。
高坂弾正別名:春日虎綱、高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)、幼名:春日源五郎(かすがげんごろう)
高坂と言う氏は信濃の名家高坂氏を継いで名乗っていた氏であり、もともとの氏は春日で甲斐の石和の豪農の出身であった。春日虎綱は春日大隅の子で、武田信玄に見いだされて家臣の道を歩んだ。
甲陽軍鑑は信玄・勝頼期の武田家臣である高坂弾正昌信(春日虎綱、以後「虎綱」と記述する)が武田家の行く末を危惧し、虎綱の甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らが虎綱の口述を書き継いだという体裁になっており、勝頼や跡部勝資、長坂光堅ら勝頼側近に対しての「諫言の書」として献本されたものであるとしている。甲陽軍鑑は以前は歴史的間違いが多く江戸時代に創作された偽書であるという誹りを受けていたが、国語学者の酒井憲二が1990年代から国語学的、文献学的、書誌学的検討を行い、軍鑑の信憑性が大きく引き上げられたとされる。この事はNHKの歴史秘話ヒストリア”武田信玄「甲陽軍鑑」が語る真実[1]”で詳細に放映された。
あまり知られていないが、『敵に塩を送る』という”ことわざ”は高坂弾正が川中島の戦いの最中に上杉家に対して行った弔意(戦場に残された6千とも8千とも言われる遺体を敵味方なく集めて手厚く葬ったとされる塚[2]。)に対し義に篤い上杉謙信が高坂弾正の行動に感激し北条・今川の包囲網によって塩を絶たれて困っていた甲斐の国に塩を送ることを決めたという逸話による。
岡山での春日家の系譜については、岡山大学図書館に保管される『先祖御奉公之品書上』[3]に記載されている。それによると、江戸初期には池田家のお殿様の食事係をして江戸に何度も往復していた事が分かる。食事係と言う事は相当に信頼されていたであろうことと、当時は食事係が医者も兼ねていた(医食同源)であろうことから江戸後期に医者となった道筋が見えてくる。
また、岡山県の医学史を研究され、同じ岡山(足守)出身の緒方洪庵と春日寛平(江戸末期から明治にかけて大阪で名医と呼ばれた)の関連性から春日家を調査された岡山大学 中山沃先生と春日誠次との間でやりとりされた書簡も春日家に残されており、載陽遺稿の中で寛平が緒方洪庵の事を”弟”と呼んでいたのが興味深いとおっしゃっている。[4]大阪(今橋3丁目)で緒方洪庵の適塾と寛平の医心庵は隣同士でその関係性がうかがい知れる。
守屋庸庵[5]が緒方洪庵の弟子であったことからも、緒方洪庵と守屋家(春日家との縁が深い)との縁が有ったことをうかがい知ることが出来る。
江戸末期から明治にかけて、大阪で漢方医として高名であった春日寛平も高坂弾正の子孫である。
春日寛平のひととなりや高松凌雲との関係については、日本福祉大学博士:山田みどりの論文 "高松凌雲と同愛社(P60)[6]" と ”高松凌雲の研究 -医師としての思想形成- [7]" を参照。
- ^ 武田信玄「甲陽軍鑑」が語る真実
- ^ 戦場に残された6千とも8千とも言われる遺体を敵味方なく集めて手厚く葬ったとされる塚
- ^ 『先祖御奉公之品書上』 岡山大学池田家文庫(マイクロフィルム)
- ^ “適塾記念会『適塾(18)』これの原文は岡山大学の中山沃先生が記載されたものであろう。文中に春日誠次の名前と先生との間でのやり取りの内容が出てくる。”. 2024年4月23日閲覧。
- ^ “守屋庸庵 春日家との縁が深い庸庵と緒方洪庵は師弟関係があった。”. 2023年11月26日閲覧。
- ^ 高松凌雲と同愛社(P60)
- ^ “高松凌雲の研究 -医師としての思想形成-”. 2023年12月3日閲覧。
- ^ 『先祖御奉公之品書上』 岡山大学池田家文庫(マイクロフィルム)
- ^ “堀江家先祖并御奉公之品書上”. 2023年12月5日閲覧。
- ^ 高坂松大夫誠明(春日蕙山)
- ^ 春日育造
- ^ 春日健造
- ^ 春日誠次
- ^ ““回陽春日先生(春日寛平)の墓”. 2024年4月23日閲覧。
- ^ “春日 鼎”. 2023年12月4日閲覧。
- ^ 春日家奉公書『先祖御奉公之品書上』岡山大学池田家文庫(マイクロフィルム)
- ^ “歴史秘話ヒストリア - NHK”. 歴史秘話ヒストリア - NHK. 2023年11月4日閲覧。
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