広瀬城 (飛騨国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/22 07:23 UTC 版)
概要
高堂城が所在する山脈稜線の東端に築かれた広瀬氏の山城である。『飛州志』では「田中城」として挙げられ「旧称広瀬ノ城卜云フ。広瀬宗城家臣田中与左衛門守之」と記している[2]。
特徴的な遺構としては、主郭西側の大堀切、西の郭の周辺の見られる畝状空堀がある。特に畝状空堀は明瞭な形で現存しており、観察しやすい。また、この畝状空堀は、城の北側と尾根の西面とにだけ掘られており、防御すべき正面を意識した配置となっている。なお、当城の大手道の傍らには、田中筑前守の墓碑が残る。
広瀬氏が天正11年(1583年)に三木自綱(姉小路頼綱)に敗れた後は高堂城と共に三木氏の拠点となったが、その三木氏も天正13年(1585年)に金森長近に敗れた[1]。
城主
- 広瀬常登入道
- 広瀬美作入道徳静
- 広瀬左近将監利治
- 広瀬山城守宗域
- 広瀬兵庫頭宗直
一族・郎党
- 広瀬介之進
- 広瀬織部
- 田中予三左エ門(城代)
- 田中与一
- 磯村長十郎
脚注
参考文献
- 国府の山城研究会編『飛騨国府 戦国の山城フォーラム:国府の山城の謎に迫る!:資料集』国府の山城研究会 2012年(平成24年)7月
関連項目
外部リンク
- ^ a b “広瀬城跡附田中筑前守墓碑”. 岐阜県 (2015年10月15日). 2021年3月28日閲覧。
- ^ 『飛州志』巻6 p.182
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