バングラデシュ 国名

バングラデシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 22:05 UTC 版)

国名

正式名称は、গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশベンガル語: ラテン文字転写は、Gônoprojatontri Bangladesh)。通称、বাংলাদেশ 発音 [ˈbaŋlad̪eʃ] ( 音声ファイル)

英語の公式表記は、People's Republic of Bangladesh(ピープルズ・リパブリック・オブ・バングラデシュ)。通称、Bangladesh [ˌbæŋɡləˈdɛʃ] ( 音声ファイル)。国民・形容詞はBangladeshi。

日本語の表記は、バングラデシュ人民共和国。通称、バングラデシュ。ベンガル語で、バングラが「ベンガル(人)」を、デシュが「国」を意味し、あわせて「ベンガル人の国」となる。バングラデッシュバングラディシュバングラディッシュと記述されることもある(後二者はベンガル語の発音に対して不自然な表記である)。日本での漢字表記孟加拉、1文字ではと略されるが、ほぼ使用されない。日本では新聞の見出しなどにおいて、バングラと略されることがある[5][6][7]

バングラデシュの国旗は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表す。豊かな自然を表す緑の地に独立のために流した血を示す赤い丸、という説もある。赤丸は真ん中から旗竿寄りにしてある。 初代バングラデシュ大統領ムジブル・ラフマンの娘のシェイク・ハシナ首相は、「父は日本の日の丸を参考にした。」と証言している[8]

歴史

近代まで

ダッカ市内のラルバグ城(17世紀)

現在バングラデシュと呼ばれる地域には、古くから文明が発達した。現在のバングラデシュはベンガル地方の東側にあたる。紀元前4世紀マウリヤ朝から6世紀グプタ朝まで数々の王朝属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるが、これには確実な証拠はない。初期の文明は仏教および(あるいはまたは)ヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。

8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝に取って代わられた。13世紀イスラム教化が始まった[9]13世紀にはイスラム教のベンガル・スルターン朝の元で、商工業の中心地へと発展した。その後、ベンガルは南アジアで最も豊かで最も強い国になった。16世紀にはムガル帝国の下で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。この頃に、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている[10]

イギリス領時代

1907年当時の東ベンガル

15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリス東インド会社により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド亜大陸全域に拡大した(英領インド)。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物や米の輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された[11]。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。

やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を企図。1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したことで、英領東ベンガルおよびアッサム英語版が確立された(今日のバングラデシュおよびインド東北部のアッサム州メガラヤ州アルナーチャル・プラデーシュ州に相当)。1906年にはダッカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き、1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。

当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会で、ベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万〜300万人の死者を出した[12]。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。

インド領東ベンガル

ダッカ市内のベンガル語運動英語版1952年

そのような中で英領インドは1947年に独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガル英語版1947年 - 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。

パキスタン領東パキスタン

パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。1970年12月の選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、1971年3月には軍が軍事介入を行って東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタン(現パキスタン)と内乱になった(バングラデシュ独立戦争)。西側のパキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。

独立、ムジブル・ラフマン政権

独立後はアワミ連盟シェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と先住民族の折り合いは悪く、ジュマ(チッタゴン丘陵地帯の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。このため先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会英語版 (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下のシャンティ・バヒーニー英語版とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。内戦や洪水による経済の疲弊により、1975年クーデターが起きムジブル・ラフマンが殺害される。

ジアウル・ラフマン政権

その後、軍部からジアウル・ラフマン英語版少将が大統領となった。1979年以降バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。

エルシャド政権

1981年に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、1983年12月にフセイン・モハンマド・エルシャド英語版中将が再び軍事政権を樹立した。1988年には、チッタゴン丘陵地帯コルノフリ川英語版上流のカプタイ・ダム英語版に国内唯一の水力発電所(230MW)建設したことにより10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がビルマ(現ミャンマー)へ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。

エルシャド政権は民主化運動により1990年に退陣。

民主化

1991年3月の総選挙で、中道右派勢力バングラデシュ民族主義党 (BNP) がアワミ連盟 (AL) を破り、BNP党首のカレダ・ジアは同国初の女性首相に就任した。1991年に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。5月10日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いた後、1992年に休戦。1997年には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。

1996年の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される[13]1996年6月の総選挙では、今度はALが勝利し、シェイク・ハシナが同国2人目の女性首相に就任した。

2001年10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。

軍政・民政復帰

2002年9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元ダッカ大学教授のイアジュディン・アハメド1名のみだったため無投票当選となった。

2006年10月、軍の圧力でカレダ・ジア率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。2007年1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。イアジュディン・アハメド大統領は、非常事態宣言を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。[1]

2008年12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、シェイク・ハシナ元首相の率いるアワミ連盟が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した[2]。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。

2014年に行われた第10次総選挙では、BNP率いる野党18連合がボイコットするまま総選挙が実施され,与党アワミ連盟が圧勝した[14]

政治

国会議事堂であるションショド・ボボン英語版

1991年憲法が改正され、大統領(象徴的な存在)を元首とする議院内閣制が確立した[13]

元首

旧イギリス植民地としてイギリス連邦に加盟するが、共和政体であるため総督を置かず、元首は大統領である。国家元首である大統領は、原則として、儀礼的職務を行うだけの象徴地位である。任期5年で、国民議会において選出される。大統領は、首相と最高裁判所長官の任命以外は、首相の助言に従い行動する。ただし、議会と政府が対立し政治的混乱が起きた際は、議会を解散し、暫定政府を発足させる権限がある。

行政

行政府の長である首相は、議会選挙後に、勝利した政党の党首を大統領が任命する。内閣の閣僚は、首相が選び、大統領が任命する。

バングラデシュの貧困の一因として、政府のガバナンス(統治能力)の低さがあげられることがある。汚職がひどく、2011年の腐敗認識指数は2.7で世界120位に位置し、2003年の1.2よりかなり改善されたものの未だ低位にいることには変わりない。また地方行政が特に弱体であり、これにより、行政が上手く機能していない。それを補助する形で、各種NGOが多数存在し、開発機能を担う形となっている。特に、アジア最大といわれるNGOの「BRAC」や「グラミン銀行」などが規模も大きく著名である。

立法

議会は、一院制で、Jatiya Sangsad国会)と呼ばれる。全350議席。任期5年で小選挙区制選挙によって選出される。また、立法に女性の意見を反映させるため、正規の300議席とは別に、女性専用の50議席が用意されていたが、2001年5月に廃止された。

民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている[15]。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い[16]。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち[17]、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党はストや抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。

司法




  1. ^ バングラデシュ人民共和国基礎データ”. 外務省. 2018年11月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, April 2014”. IMF (2014年4月). 2014年9月28日閲覧。
  3. ^ ムガル帝国の時代には経済的に一番豊かな州の一つであり、イギリスによる植民地支配期には英領インドで最も早く西欧文化の影響を受け、西欧化・近代化の先頭に立っていた地域である。(中里成章「新しい国の古い歴史」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 20ページ)
  4. ^ 農村の国であり、2000年の統計では全人口の75%が農村で暮らしている。(長畑誠「農村の貧困問題」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 222ページ)
  5. ^ “バングラで多国間PKO演習 自衛隊から4人が参加”. 朝雲新聞. (2012年2月9日). http://www.asagumo-news.com/news/201202/120214/12021405.html 2012年2月9日閲覧。 
  6. ^ “非常任理事国の選挙、日本を支持…バングラ首相”. 読売新聞. (2014年9月6日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140906-OYT1T50124.html 2014年9月7日閲覧。 
  7. ^ 国連安保理非常任理事国選挙 我が国の過去の選挙結果(外務省)
  8. ^ 清水憲司 (2014年5月27日). “バングラデシュ首相:日の丸参考に国旗…親日アピール”. 毎日新聞. http://mainichi.jp/select/news/20140528k0000m030031000c.html 2014年5月29日閲覧。 
  9. ^ 1204年、トルコ系ムスリム奇襲によってムスリム王権が成立した
  10. ^ 臼田雅之「イスラーム教徒が増えた時期」/ 『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 28ページ
  11. ^ 臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明ほか 28-29ページ
  12. ^ 中里成章「新しい国の古い歴史」(参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版]22ページ
  13. ^ a b 佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 40ページ
  14. ^ バングラデシュ基礎データ-日本国外務省
  15. ^ BNP=1991〜1996年、AL=1996〜2001年、BNP=2001〜2006年
  16. ^ 佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大島正明ほか 41ページ
  17. ^ 暴力団や学生組織(BNP系の民族主義学生等:JCD、アワミ連盟系のバングラデシュ学生連盟:BCL、イスラーム党系のイスラーム学生戦線:JCS)佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/ 大島正明ほか 43ページ
  18. ^ NHKBS1「ワールドWaveトゥナイト」 2011年11月18日放送
  19. ^ ベンガルデルタとは、ガンジス(ポッダ)川、ブラフマプトラ(ジョムナ)川、メグナ川の3大河川の堆積作用によってできた大地である。
  20. ^ ベンガル低地、東西約400km、南北約560kmの広がり、標高は北部で40〜50m、南部で2〜3m、洪積台地と沖積低地に大きく分けられ、台地は中央部や北西部に広がっている、首都ダッカは台地の南端に位置する。台地と低地の高低差はおよそ10メートル以下である。畑作が中心で、水田は浅い谷部分に分布する。(大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 44〜45ページ)
  21. ^ 大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 44ページ
  22. ^ 地図が創る未来”. 独立行政法人国際協力機構. 2017年10月10日閲覧閲覧。
  23. ^ 後発開発途上国”. 外務省. 2020年3月8日閲覧。
  24. ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update Archived 2015年3月18日, at the Wayback Machine.
  25. ^ バングラデシュ”. JICA. 2020年3月8日閲覧。
  26. ^ 大橋正明、村山真弓編著、2003年8月8日初版第1刷、『バングラデシュを知るための60章』p40-41、明石書店
  27. ^ バングラデシュにおける二輪車新工場の稼働を開始本田技研工業ニュースリリース(2018年11月11日)2018年11月23日閲覧。
  28. ^ 「バングラ、台頭する造船業 船舶解体業が材料供給」『日本経済新聞』電子版(2012年4月20日)2018年11月23日閲覧。
  29. ^ バングラデシュ基礎データ 二国間関係 5在日当該国人数”. 外務省. 2020年3月8日閲覧。
  30. ^ [Statistical Yearbook of Bangladesh ]Bangladesh Bureau of Statistics 2012
  31. ^ 「船の墓場:南アジア」”. Global News View (GNV). 2018年5月3日閲覧。
  32. ^ 松澤猛男「天然ガスと電力」/大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 133-134ページ
  33. ^ 里見駿介「リキシャからジャンボ機まで」/大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 137ページ
  34. ^ 臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章 [第2版]』 明石書店 2009年 27ページ
  35. ^ [Statistical Yearbook of Bangladesh ]Bangladesh Bureau of Statistics 2012
  36. ^ 国勢調査、1974年7130万人、1981年8994万人、1991年1憶799万人、2001年1億2925万人、(臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 27ページ)
  37. ^ Report for Celected Countries and Subjects”. international monetary found. 2020年3月8日閲覧。
  38. ^ 「イスラム過激派指導者を射殺=邦人死亡テロ犯に影響か-バングラ」フランス通信社時事通信(2018年11月6日)2018年11月23日閲覧。
  39. ^ 生後3日の女児の遺体、墓から掘り出され路上に放置 バングラ”. AFPBB News (2020年7月12日). 2020年7月13日閲覧。
  40. ^ Bangladeshi Culture、Cultural Atlas.
  41. ^ Report: Flooded Future: Global vulnerability to sea level rise worse than previously understood” (英語). climatecentral.org (2019年10月29日). 2019年11月4日閲覧。
  42. ^ 藤井 孝文, モハマド マスド・カリム、「バングラディシュの地下水ヒ素汚染について」、『水工学論文集』Vol. 42 (1998) P 397-402
  43. ^ 世界で一番米を食べるのはバングラデシュ、日本は50番目”. TRIP ADVISOR (2015年4月9日). 2020年3月8日閲覧。





バングラデシュと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

「バングラデシュ」に関係したコラム

  • 株式の取引が行われる証券取引所の一覧

    2012年6月現在の日本の証券取引所、および、世界各国の証券取引所の一覧です。▼日本東京証券取引所(東証)大阪証券取引所(大証)名古屋証券取引所(名証)福岡証券取引所(福証)札幌証券取引所(札証)TO...

  • 世界の株価指数一覧

    株価指数は、証券取引所に上場している銘柄を一定の基準で選出し、それらの銘柄の株価を一定の計算方法で算出したものです。例えば、日本の株価指数の日経平均株価(日経平均、日経225)は、東京証券取引所(東証...

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バングラデシュ」の関連用語

バングラデシュのお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



バングラデシュのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのバングラデシュ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS