出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/30 07:46 UTC 版)
即位前の名前はゼヤテインカ。ナンダウンミャーの生母は低い身分の生まれだった。ナラパティシードゥー は病に罹ったときに彼の母から懸命な看病を受けて心を打たれ、末子のゼヤテインカ(ティロミンロ)を後継者に指名した[1] 。彼の生母が、彼の王位継承を認めるように宮廷内の人間に懇願したことから、「ナンダウンミャー (王位に対する幾度の懇願)」と称せられた。
ナンダウンミャーは政治よりも仏事を好み、彼に代わって4人の兄たちが合議に基づいて政務を執った。ナンダウンミャーの在位中に行われた合議制の統治が、後のビルマの王朝に設置されたルットウ・ヨン(国務院。行政を司る議会)の元になり、ルットウ・ヨンはビルマがイギリス によって植民地化されるまで存続した[2] 。彼の在位中に制定された法令は、「ナンダウンミャー王のピャトン」と呼ばれた。
また、彼の治世には寺院が所有する免税地の拡大に伴う、税収の減少が顕著になる[3] 。減収の対策として、王子2名と大臣4名から構成される宗教用地調査委員会が設置された。
彼の治世に建立された仏教寺院としては、ブッダガヤ の寺院を見本としたパガン郊外のマハボディ大菩提寺、パガン王朝最後の大寺院に数えられるティロミンロ寺院がある[4] 。
参考文献
伊東利勝「イラワジ川の世界」『東南アジア史 1 大陸部』収録(石井米雄 、桜井由躬雄 編, 新版世界各国史, 山川出版社 , 1999年12月)
G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』(東亜研究所訳, ユーラシア叢書, 原書房 , 1976年)、89-90頁
パガン王朝 国王
ピューソウティ167-242 / ティミニー242-299 / イムミンパイ299-324 / パイティリ324-344 / ティンリチャウン344-387 / チャウンドゥリッ387-412 / ティタン412-439 / タラムンピャ494-516 / タイタイン516-523 / ティンリチャウンネ523-532 / ティンリパイ532-547 / カンラウン547-557 / カンラッ557-569 / トゥンタイ569-582 / トゥンピッ582-598 / トゥンチッ598-613 / ポパ・ソウラハン613-640 / シュウェ・オンティ640-652 / ペイトン 652-660 / ペイタウン660-710 / ナクウェ710-716 / ミンチウェ716-726 / テインカ726-734 / テインスン734-744 / シュウェラウン744-753 / トゥントウィン753-762 / シュウェマウ762-785 / ムンラッ785-802 / ソウキンニッ802-829 / ケル829-846 / ピンピャ846-878 / タンネッ878-906 / サレ・ナクウェ906-915 / テインコ915-931 / ニャウン・ウ・ソウラハン931-964 / クンソウ・チャウンピュー964-986 / チーソ986-992 / ソッカ・テ992-1044 / アノーヤター 1044-1077 / ソウルー 1077-1084 / チャンシッター 1084-1113 / アラウンシードゥー 1113-1165 / ナラトゥー 1165-1170 / ナラティンカー 1170-1173 / ナラパティシードゥー 1173-1210 / ナンダウンミャー 1210-1234 / チャゾワー 1234-1250 / オウサナー1世 1250-1255 / ナラティーハパテ 1255-1287 / チョウスワー 1287-1299 / ソウニッ 1299-1314
※アノーヤター以前は実在が確認されていない