カスパール・フォン・シュティーラー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 04:27 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動生涯
シュティーラーは、エアフルトの市民の家庭に生まれ(父と祖父は薬剤師であった)、エアフルトの商人学校とギムナジウム(ドイツ語版)に通った。1647年からライプツィヒとエアフルトの大学で、1649年からはマールブルクとギーセンの大学で医学を学んだ[4]。1649年にはライプツィヒでギャラントな歌で注目される[2]。1650年に禁止されていた決闘をしたため退学処分にされる[1]。1651年にはケーニヒスベルク近辺で家庭教師をし、1653年には、ケーニヒスベルク大学に入学し、1654年まで医学、法学、神学、「雄弁術」(修辞学)を学んだ[5]。またケーニヒスベルクで、シュテーラーは詩人で作曲家であるハインリヒ・アルベルト(ドイツ語版)や詩人のジーモン・ダッハと交友を持った[2]。おそらくこの東プロイセン時代に、1660年にGeharnschte Venusとして出版される詩の大部分が成立した。シュティーラーは、1655年からポーランドとスウェーデンの間の戦争にトランペット奏者として[2]参加した。1656年には疫病に感染したため退役し、1657年にはダンツィヒ経由でハンブルクに向かった[1]。その後学業のためオランダに向かうが、フランス兵として強制的に徴集され、戦争のごたごたでスペインまで行くこととなった。その後逃亡してフランスに戻り、ある侯爵の家庭教師として船でイタリアに赴いたりした[2]。ドイツに戻ると、1661年にはイェーナで短期間法律を学び、1662年に修了した。1663年には、市参議会員ゲオルク・フリードリヒ・ブライテンバッハ(ドイツ語版)の娘であるエアフルトのレギーナ・ゾフィー・ブライテンバッハ(1640年10月7日 - 1676年9月27日)と最初の結婚をした。シュティーラーは、1662年から様々な中部ドイツの宮廷で秘書として働く傍ら、文学、後には言語学や法学などの書物を手掛けた。1666年には、ザクセン=アイゼナハ(ドイツ語版)侯爵領の総督ツァハリアス・プリュシェンク・フォンリンデンホーフェン(ドイツ語版)の秘書となり、シュティーラーはここで実りを結ぶ会と接触し、1668年にアウグスト・フォン・ザクセン=ヴァイセンフェルス公爵(ドイツ語版)を通じて会に加盟した。会では名前としてSpate、標語としてübertrifft den Frühzeitigen(早熟を超える)が与えられ、紋章にはカリフラワーがあてられた。ケーテンの名簿では、813番にシュティーラーの名が記されている。最初の妻レギーナ・ゾフィーが亡くなると、1677年5月15日にアイゼナハの市長の娘クリスティアーネ・マルガレーテ・コッタと結婚した[5]。1689年には秘書の仕事を辞めてエアフルトに戻り、以降は在野の学者として多くの著作を残した。1705年には世襲の貴族に列された。1707年6月24日に、シュティーラーは故郷で亡くなった[6]。
Die Geharnschte Venus
詩集Die Geharnschte Venus(武装したヴィーナス)は、シュティーラーが軍隊にいた時に成立し、「Filidor der Dorfferer」の筆名のもと出版された。各詩の前にはメロディーと数字付低音の譜面が記載されている。自身の体験のもと、古典ラテンの恋愛悲歌、ペトラルキズム(ドイツ語版)と反ペトラルキズム、近代のマリニスト(英語版)、ニュルンベルクのバロックマニエリスト、とりわけマルティン・オピッツ(ドイツ語版)の詩のモチーフとテーマが結びつき、多様性に富んだ独自の世界が歌われている。[1]
- ^ a b c d “Deutsche Biographie - Stieler, Kaspar von (seit 1705)”. 2021年4月24日閲覧。
- ^ a b c d e f Conrad Freyse: Johann Sebastian Bachs erstes Gesangbuch. In: Jahrbuch für Liturgik und Hymnologie Vol. 6 (1961), pp. 138-142
- ^ “Kaspar von Stieler - Deutsche Digitale Bibliothek”. 2021年4月24日閲覧。
- ^ “Stieler, Kaspar, Biographie - Zeno.org”. 2021年4月24日閲覧。
- ^ a b Fritz Rollberg: . In: . 7. Jg. Gustav Neuenhahn, Jena 1938, S. 65–74.
- ^ 特記のない限り、伝記の内容はIsing 1968、II-Vによる。
- ^ Ising 1968, XV を参照。
- ^ Ising 1968, XI を参照。
- ^ Ising 1968, X 以下を参照。
- ^ Ising 1968, XI 以下を参照。
- 1 カスパール・フォン・シュティーラーとは
- 2 カスパール・フォン・シュティーラーの概要
- 3 讃美歌集の共編者
- 4 脚注
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