アーマー鉄道事故 その他の批判

アーマー鉄道事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/05 03:29 UTC 版)

その他の批判

不適切な機関士と機関車

出発時点の15両編成であっても、当該の臨時列車は、アーマーの勾配区間を15マイル毎時 (24 km/h) で登ることができたはずであった。調査官は、勾配を登ることができなかったのは、経験不足の機関士が機関車の適切な管理を怠ったために違いないと判断した[3]。ダンドーク機関区の責任者は、より経験のある機関士を送らなかったこと[注 8]、そして機関車の選択について批判された。臨時列車を13両編成にしたとしても、車軸配置2-4-0の機関車には、アーマー以降のさらに厄介な勾配を走る際には、安全な速度[注 9]を確実に維持するだけの充分な余裕がなかった。15両の臨時列車であれば、定期列車の機関車で後押しをするべきであった。

補助機関車の不連結

事故報告書は、臨時列車の機関士が機関車の能力について過剰に自信を持っていたことを批判し、そして彼のより適切な意見がアーマー駅長によって無視されてしまったことを遺憾だとしている。主任助手もまた、定期列車の機関車に後押しをさせるように強く主張しなかったことについてさらに批判されている[3]。駅長に対しては、臨時列車の編成を長くしたことについても、アーマーの勾配を補助機関車なしで行かせようとしたことについても、直接的には批判しなかった。

臨時列車

臨時列車の編成に関しても、何点もの批判点が挙げられた。

  • 乗客を緩急車に乗車させるべきでなかった:厳格に禁じられるべき慣行
  • 客車の扉を鎖錠するべきではなかった:誤った行い
  • 列車の重量と路線上の勾配に照らして、緩急車は2両とも列車最後尾に連結するべきであった
  • 列車の編成をこれほど長くするべきではなかった。

当該路線のようにきつい勾配のある区間にこのように重い臨時列車を走らせることは、強く控えるべき行いである。約10両程度に抑えておくことが望ましかった。この点は、ニューリー-アーマー線におけるアーマー駅が実際にそうであったように、長い旅客列車を取り扱うためには完全に不適切な駅を出発する列車には、より強く適用される。今回の事例でも、当該の臨時列車は長すぎたため、客車の一部はプラットホームから、それ以外はプラットホーム以外の本線上から旅客を乗せなければならず、入換を繰り返してニューリー-アーマー線へと送り出さねばならなかった[3]


注釈

  1. ^ こんにちよく知られるホワイト式車軸配置表記は当時は使われていなかった。最初に使われたのは1900年である。
  2. ^ 使われた機関車の形式は明らかではないが、事故報告に記載された特徴によれば、グレート・ノーザン鉄道Hクラス機関車であると思われる。
  3. ^ 緩急車(ブレーキをかける設備のある車両)がここで言う客車として数えられているかどうか、いずれの証言でも不明確である。機関車が牽引してきた車両は、15両の客車、15両の車両、13両の車両と2両の緩急車、などと様々に記載されている。
  4. ^ 1881年のアイルランド国勢調査によれば、アーマーの人口は9000人以下である。臨時列車の企画をした人にはのちに、ウォーレンポイントまでの941人分の旅費として39ポンド4シリング3ペンスの請求書が送られ(バーミンガム・デイリー・ポスト 1889年7月1日月曜日)、このことについて会社はのちに謝罪することになった。
  5. ^ これは臨時列車では標準的な慣行であるとされていたが、しかし1842年のベルサイユ鉄道事故を受けた商務庁奨励事項(客車の扉のうち最低1か所は鍵をかけないでおくこと)、そして1868年のアベルゲレ鉄道事故英語版を受けた奨励事項(客車のすべての扉は鍵をかけないでおくこと)に違反していた。
  6. ^ これは車掌の証言による。
  7. ^ 前半側の車掌の意見によれば、12インチから18インチ(約30センチメートルから45センチメートル)程度である - ウィリアム・ムーアヘッドの証言
  8. ^ 機関士は証言において、機関車には何の問題もなかったが、ブレーキをいろいろいじっていたと興味深い示唆をしている。ブレーキが不適切にかかっていたために、列車の進行が妨げられていた可能性を考慮しなかった理由について、事故報告書では触れていない。オックスフォード・コンパニオンの「イギリス鉄道史」によれば、そのブレーキに関する記事で、直通真空ブレーキについて以下のように触れている。

    初期のインゼクタの不安定な性能のため、ブレーキを緩めているときにも真空度に変動が起きることがあった。これにより、列車を止めるほどではないが、車輪に制輪子が当たることがあり、燃料を浪費することにつながっていた。

    また、ニューアークで1875年に様々な貫通ブレーキ装置が試験された際には、真空ブレーキを装備した列車がブレーキを十分に緩解できずに、通常の速度に到達しなかったということもあった。
  9. ^ 当該路線は時間間隔法で運転されていたので、続行列車より先行列車がゆっくり走ることは危険であった。
  10. ^ ベルファスト選出のトーマス・セクストンが以下のように主張した。

    この悲惨な事故に遭遇した臨時列車ので車掌の役割を務めた2人はニューリー駅の入換手であって車掌業務には未経験であり、当該路線のことにも車掌としての業務にも知識がなく、さらにそのうち1人(ムーアヘッド)は、前日16時間働いており、その日も朝4時から働いており、給料は1週間に11シリングであった。

    これはやや言い過ぎであり、2人とも車掌として過去に何度か乗務経験があった。
  11. ^ 特にクルー選出の議員

出典

  1. ^ Adair, Gordon (2014年6月12日). “Armagh train disaster remembered 125 years on”. BBC News. http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-27806226 2014年11月2日閲覧。 
  2. ^ Currie, J. R. L. (1971). The Runaway Train: Armagh 1889. Newton Abbot: David & Charles. pp. 109, 129–130. ISBN 0-7153-5198-2 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Report of the Board of Trade (Railway Department) into the circumstances of the collision near Armagh on 12th June 1889, Maj-Gen C S Hutchinson
  4. ^ a b c , Accident report – evidence of John Foster (the station master)
  5. ^ Accident report – evidence of James Elliott (examined in prison)
  6. ^ a b Accident report – evidence of Thomas McGrath
  7. ^ Accident return – evidence of Thomas Henry
  8. ^ Accident return – evidence of James Park
  9. ^ Accident report – evidence of James Elliott
  10. ^ “THE ARMAGH RAILWAY ACCIDENT.”. South Australian Register (Adelaide, SA : 1839 – 1900) (Adelaide, SA: National Library of Australia): p. 5. (1889年6月24日). http://nla.gov.au/nla.news-article47058909 2011年8月20日閲覧。 
  11. ^ “THE ARMAGH RAILWAY DISASTER.”. The Maitland Mercury & Hunter River General Advertiser (NSW : 1843 – 1893) (NSW: National Library of Australia): p. 3. (1889年8月8日). http://nla.gov.au/nla.news-article18974065 2011年8月20日閲覧。 
  12. ^ “The Armagh Railway Disaster”. Morning Post. (1889年10月28日) 
  13. ^ reply to Francis Channing, House of Commons Debates 18 June 1889 vol 337 cc118-9
  14. ^ House of Commons Debates 21 June 1889 vol 337 cc422-3.
  15. ^ a b [answer to T W Russell, House of Commons Debates 15 July 1889 vol338 c392
  16. ^ House of Commons Debates 11 July 1889 vol 338 cc116-7 116
  17. ^ Speech of Mr Brunner, MP for Northwich; House of Commons Debates 2 August 1889 vol 339 cc 228-30
  18. ^ Nock, O S, Historic Railway Disasters, Ian Allan Publishing Ltd, 1980
  19. ^ Rolt L T C, Red for Danger, Bodley Head/David and Charles/Pan Books, 1956
  20. ^ article on 'Parliament and legislation' (contributor J Simmons) p 366 of J Simmons & G Biddle (eds) The Oxford Companion to British Railway History, (paperback edn) , Oxford, 1999 ISBN 0-19-866238-6





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