Suhlとは? わかりやすく解説

ズール

(Suhl から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 16:15 UTC 版)

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紋章 地図
基本情報
連邦州: テューリンゲン州
郡: 郡独立市
緯度経度: 北緯 50度36分38秒
東経 10度41分35秒
標高: 海抜 429-676 m
面積: 102.7 km²
人口:

36,789人(2019年12月31日現在) [1]

人口密度: 358 人/km²
郵便番号: 98501–98529
市外局番: 03681
ナンバープレート: SHL
自治体コード: 16 0 54 000
市の構成: 市内および4街区
市役所の住所: Am Marktplatz 1
98527 Suhl
ウェブサイト: stadtsuhl.de
市長: イェンス・トリーベル (Dr. Jens Triebel)(無党派)2006年5月7日就任
クロイツ教会
クリスマスの市庁舎

ズール(Suhl)は、ドイツ連邦共和国の都市。テューリンゲン州に属する。人口は約37,000人。近世より武器の生産で知られる。

地勢・産業

広義的なフランケン地方に北東部に属して、テューリンゲンの森につつまれたおよそ標高600mにあるズール市は夏でも平均気温25度ととてもしのぎ易い。テューリンゲンの森は美しくレンシュタイクという尾根歩きができる道が整備されている。森林浴をするにはとてもいい。野鳥、小動物、鹿など野生動物が多く生息している。

ドイツではめずらしく上水道が軟水で水がおいしい。それは山から湧き出る水を引いているためである。ここは過去において武器の生産が盛んであった。

武器製造会社はドイツ統一後にスポーツ・競技用を生産する会社に転じた。銃器製造会社は他州に移動していまはない。ズール市には唯一、市立のハンドメイドの銃器製造(競技銃・狩猟銃)をまなぶ学校がある。

市内にズール武器博物館がある。数百年にわたる様々な武器が展示されている。博物館は改修工事で一時閉館されていたが、2008の年6月に営業を再開した。近隣の都市としては、大学都市のイルメナウ、約20km西にマイニンゲン、50km北東にテューリンゲン州の州都エアフルトが位置している。

歴史

中世よりの産出地として知られていた。16世紀以降、宗教戦争が多発するなかでの生産地として発展した。この地の職人が作り上げた銃は、ネーデルラント・スイス・デンマークなど各地にまで輸出された。20世紀に入っても武器産業は盛んであり、第一次世界大戦中にはMP18第二次世界大戦中にはMP38/MP40StG44などの様々な武器が生産された。それゆえ、連合国から激しい空爆を受けた。第二次世界大戦後、この地域をどの国が統治するか決定する会議がズール市で連合国、ソ連の会議がもたれた。その結果ソ連が統治することが決められた。

ソ連統治が決定されてズール市は大きく変わることになる。当時のズール市の人口はおよそ7,000人足らず、日本でいう山村の村である。そこにポーランド、チェコから3万人が都市作りのために移住して来たのである。それはすべてソ連の軍需産業を構築するためである。開墾して道路をつくり、労働者のためのアパートを作ったのである。ズール市はズール出身者以外の人が多くなってしまった。ソ連はこの町に軍需産業をつくりあげることになる。

ズール市は東ドイツ時代のズール県ドイツ語版の県庁所在地であった。東西ドイツの統一後、テューリンゲン州に属することになった。現在のテューリンゲン州はエアフルト県(エアフルト市)ズール県(ズール市)ゲーラ県ドイツ語版ゲーラ市)で構成される。東独時代のズール市は銃器産業が主で製品はソ連に出荷された。中近東アジアにもソ連はズール製造銃器を販売することになる。また有名なカラシニコフ銃のライセンス生産も行われた。

ズール市には旧東独時代にミュンヘンオリンピックを目指して国威発揚をかけてつくられた射撃場がある。再統一後にズール市が旧東独資産から買い上げた施設である。この施設は唯一現在のドイツのクレー射撃場として整備されている。ミュンヘンオリンピックのオリンピック射撃において1位ソ連、2位東独で西独は金メダルも取れない惨憺たる状況であった。それゆえ東西冷戦時代のズール県、ズール市は社会主義連邦の戦略的地位においてとても高く重要な拠点であった。

東独時代のズール市に"国立日本風旅館・鉄砲かじ"があった。それは大浴場や大宴会場、畳敷きがある日本建築様式をまねた宿泊施設であった。当時、日本は東独と国交があったことで当時の日本経済団体連合会、日本の建設企業がいくどとなく東ベルリン訪問していた。その東ベルリン訪問に際して東独は日本からの客をその"国立日本風旅館・鉄砲かじ"へ招待していた。そのズール市の〝国立日本風旅館・鉄砲かじ〟は法外の宿泊料金にもかかわらず宿泊客はズール県のみならず東独の全県にまたがっていた。しかも2年先までも予約で埋められていた。

町にある国営スーパーには売るモノや食料品がないにもかかわらずその"鉄砲かじ"旅館で日本式の豊富な食事が楽しめた。冷戦の下で唯一その鉄砲かじ旅館で日本の気分を味わえるのである。それゆえそこに人が殺到するのは当然である。その時代がズール県、ズール市のいちばん華やかな時代であった。

数年待ちの予約、これは格別のことではなく東独の国民車のトラバントも購入予約して平均で13年後に納車である。冗談のようだが親が新車購入予約で子供の代でのれるということが実際につい18年前まであったのである。しかも車の性能はよくなくまた値段は安くない。社会主義国家にはインフレがないというが"国立日本風旅館・鉄砲かじ"は東独国民に賃金というかたちでばらまかれた東独マルクを集塵機のように中央政府へ回収する機能を果していた。

東西ドイツ統一後、市中央にあったその"国立日本風旅館・鉄砲かじ"は1990年に建物すべてが解体された。ズール市・SED (ドイツ社会主義統一党) を挙げての証拠隠滅である。その場所は現在、市営駐車場になっている。解体理由の大きな理由のひとつに旅館の各部屋、宴会場には宿泊客を監視する"隠しマイク、盗聴設備"が仕掛けられていたからである。それら盗聴によって多くの宿泊者はシュタージ刑務所に送られた。

東独時代のスキャンダルな行動が明るみに出るのをズール市が恐れたからである。そうなれば多くのズール県、市役人、関係者が裁きの場に引き出されることになる。どうも洋の東西をたがわず酒がはいると用心が薄れるようだ。

そのような状況であるがゆえズール市のシュタージ(国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit、略号:MfS)は東独のなかでも決定的に強力に組織された。市民および地域住民はシュタージによって絶えず活動が監視がされていた。旧東独、特にズール市はシュタージを切り離して存在しえないのである。

また市民同士の相互監視機構が組織され、特に国民連帯組織・フォルクス・ゾリダリテート( Volkssolidarität )は社会福祉組織であると同時に、東独国民による西独への抵抗組織であった。テューリンゲンの森の奥深くにまだ地下壕が現存している。冷戦当時に持久戦で半年は保てる食料、武器が保管されていた。テューリンゲンの森、すなわちそこは西独ヘッセン州およびバイエルン州と東独ズール県の壁であった。冷戦が実戦になった場合そこは戦場と化する。そのためズール県のテューリンゲンの森は重要な戦略地域であった。

ベルリンの壁を乗り越えて西へ逃亡する事件は有名である。このテューリンゲンの森を越えて逃亡することも可能性としてはあるが、しかしフォルクス・ゾリダリテートの強力な相互監視組織下でテューリンゲンの森越えほとんど不可能であった。その管理はズール県すなわちズール市の管轄であった。

すなわちズール市のフォルクス・ゾリダリテート組織自体は市民を監視する組織の一面も兼ね備えていた。まさに両刃の剣である。住民監視組織は密かにしかもたくみに組織された。そのため全市民は震え上がりそのシュタージの監視のなかでドイツ国家統一まで住むことになる。フォルクス・ゾリダリテートは現在も社会福祉組織として存続し、ズール市広報でも公式に案内記載されており今日まで組織的に活動している。

市民相互監視組織は家族内、友人同士、同僚同士、住宅の住人同士までありとあらゆる所にネットワークがはりめぐらされた。つまり誰が誰を監視しているのかはシュタージ組織しか知りえない。したがって本人が知らない間にシュタージに密告されシュタージ刑務所に護送される事態がおきる場合があった。これは東独国家が強力な秘密警察国家であったと言える。

長きにわたる国家監視社会はそこに住む人の精神構造に多大な変革を起すまでになる。その結果ここズール市やこの南テューリンゲン地域社会にすむ住民は東独の他県にすむ人にくらべて特に猜疑心がつよく、ごう慢で、しかも他人や他文化を受け入れられないようにある。性格的に偏狭で心はまったく閉じられた人物像が作られた。

日本では有名な日光東照宮にある三猿の伝えが実際にここにもある。『見猿、言わ猿、聞か猿』が東独時代ズール市民の処世訓になった。

ドイツ統一直後、ズール市の人口は東独時代の隆盛期に比しておよそ70%の住民が旧西独州に流出した。そしてズール市に残されて留まった市民の大部分は精神に異常をきたすものが現れた。東独のために信じて働いていたのが突然目標が消えたわけであるからその精神的な苦悩、苦痛は計り知れない、ある意味での燃え尽き症候群であった。彼らはそれを称して『keine Zukunft』と言う。将来がない、お先真っ暗!ということである。

ズール市の住民流出は現在でも歯止めがかからない。これはズール市にかぎらず旧東独の社会現象である。現在のズール市住民の多くは失業者、年金生活者、高齢者、子供である。市の財政は困難を極めて現在模索中である。ドイツ政府からの旧東独都市への補助金は近々打ち切りになる。税収がほとんど期待できないズール市は今大きな問題に直面している。

ドイツ再統一後ズール市に旧東独地域で、はじめてドイツマクドナルドが開店した。しかしズール市民こぞってそのマクドナルドをボイコットして不買運動を2年間にわたって展開した。その結果マクドナルドはズール市から撤退し隣接のツェラ・メリース市に移転を余儀なくされた。

ズール市のシュタージはその運動の中心的役割に関与している。いまズールには企業がない。ズール市の旧東独企業は製品品質、デザインなどの競争に勝てず倒産閉鎖になった。その反動運動として西側企業は市民のボイコット運動で追い出された。この結果働く場所がないのである。ズール市の市組織再編をいかにするか、どのようにできるか、また企業誘致が成功するかが鍵であるがこの都市がいまだ社会主義者の都市であるかぎり、ズール市の企業誘致政策は成功しない。ズール市はいまだ危険な町である。

また旧西独州や諸外国ではドイツ再統一の呼称を使うがここではその東西ドイツの苦難の歴史的活動(国家消滅と新たな国家誕生)は「nach der Wende」と言う。意味は「転換期の後」、いまだに歴史的出来事をはっきりと認識できない状況にある。

17年を経過した2006年6月に新市長が誕生した。ズール市にやっとあらたな光がとどいているように映る。しかし現ズール市役所組織で働く人は旧SED/シュタージ組織の人員構成である。つまりドイツ再統一時に組織改革がされていないのである。旧体制をそのまま引き継いでいる。

2007年時点で、ズールでは公式的にいまだドイツ国歌「ドイツの歌( Deutschlandlied )」はいろいろな行事において演奏されていないままであるしドイツ国旗も公式行事にも掲げられないままである。

ズールを舞台にした作品

  • Sushi in Suhl(映画 2012年 ドイツ ※日本未公開) - 東独時代、実在した日本食レストラン「HO-Restaurant Waffenschmied」(直訳:国営レストラン 武器鍛冶)とその店主Rolf Anschützを描いた作品。[2]

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